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鹿島舘 旧高野村大字土棚




鹿島舘 旧高野村土棚 田村四十八舘

旧高野村大字土棚にあり、田村氏の重臣橋本明則が天文元年より居住しています。

明則の子、定明に至るまで新田黒鹿毛舘と相連絡して田村氏の藩屏でした。


鹿島舘の舘上に「鹿島宮(現鹿島神社)」を勧請したことから鹿島舘と呼ばれています。

尚、舘跡より古瓦器の類が多数掘り出されています。

明治期に開墾の折には、埋葬されたような壺の中から、古代の石剣が発見されています


南北朝時代の南朝方の忠臣橋本氏の氏神

鎌倉末期、皇位継承をめぐり南朝と北朝に朝廷が分かれて争っていた南北朝時代に、南朝方の拠点として南奥州での激戦場となった宇津峰城。

1352年5月に陥落しましたが、この篭城戦を指揮したのは後醍醐天皇の孫の守永王を奉ずる陸奥介兼鎮守将軍の北畠顕信であり、攻める北朝勢の総大将は、足利一族で奥州管領の吉良貞家でした。
田村地方に多い橋本氏の先祖、南朝忠臣橋本正茂をは、畿内以来一貫して南朝方の主力として活躍した武将です。
その橋本氏一族が最後にたどり着いたのが三春田村領で庄司との関連もそこからだと考えています。
庄司の山中にある舘跡の居はその仮御所の名残とだとも伝わっています。
南成田には、橋本姓が多くその氏神として春日神社を祀ったのではないかとも・・・

さらに、橋本氏の祖として考えられるのは、後の歴史的背景から見て、和泉国日根郡橋本郷を本拠とする楠木氏の一党の橋本氏(『太平記』巻十六をみると橋本八郎正員の名が記載)ではないでしょうか。

鎌倉末期の混乱期である南北朝時代と云いますから今から約700年前、田村義顕公の三春入城の約160年前となります。

橋本正員は、湊川にて楠正成と共に忠死していますが、その子正家は、楠木正成三男楠木正儀の子楠木正秀らと共に千早赤阪村の城にて挙兵するも落城して奥州に下り再起を図ります。

その子橋本正茂は、後に顕家の弟顕信に属して北畠顕家に従って上京し足利軍と奮戦し、顕家公の戦死後、田村輝定の軍に属して東国各地を転戦し足利軍に抗戦すること十有余年。南朝方に組し「錦の御旗」の元で勤王・官軍として終始忠節を尽し戦い抜いています。

尚、「田村太平記」の系図では、橋本正員─正家─正茂─正典(三春大神宮合祀の橋本正茂を祀る橋本神社の史蹟)となっています。




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:29 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村四十八舘1 |