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塵壺359号 奥州本宮宿太郎丸 「御菓子司 こやま」 令和3年6月発行 



    奥州本宮宿太郎丸 「御菓子司 こやま」
 
2019年の台風19号で中心部を流れる阿武隈川が氾濫し、甚大な浸水被害に遭った奥州本宮宿

私の母の里である太郎丸の本宮観音様前にある「小山菓子店」も例外ではなく、1986年「8.5水害」同様、浸水時には一階店舗兼工場が胸のあたりまでの浸水し、大変な被害となってしまいました。





テレビをご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、水害から一年経って小山菓子店は、おばあちゃんと孫娘の営む「御菓子司こやま」としてリニューアルオープンして、お客様に愛される和菓子店として新たな一歩を踏み出し「本宮魂」を見せています。

小山菓子店の小山家は、明治の頃に新潟蒲原郡寺尾(現新潟市西区寺尾)の商家の末弟だった曾祖父が丁稚奉公に出されたのが本宮宿仁井田でした。

才覚があったのでしょう、奉公先の家付き娘と所帯を持ち今の太郎丸にあった二軒長屋で商いを始めます。

はじめは「油げ」や豆腐を手掛けていましたが、後に饅頭屋になり現在に至ります。

この辺は、当三春昭進堂と同じような経緯です。

目の前にある観音様や安達太良神社の祭礼、そして遠くは白沢岩角山高松寺の祭礼などには大八車に饅頭や油げ豆腐を積み込んで商いをしていたそうです。

曽祖父や祖父は、そのご尊顔から愛嬌があり、大変愛想が良く商売向きの人柄だったと聞き及んでいます。

私などは、よく「母親・本宮似で商売向き」と云われる所以なのでしょう。

先に他界した叔父は母の弟で、叔父も小山らしく愛想が良く、仕事が大好きな真面目な商人でした。


本宮は、阿武隈川などが中心部を流れる地理的な要因もあり歴史的に見てもたびたび川の氾濫・洪水浸水被害に見舞われてきましたが、その都度宿場の皆さんで力を合わせて復興し発展を遂げてきました。





母の里というものは、何年たっても何か特別な感情があり、本宮出身だと聞くだけで話が盛り上がります。

特に安達太良神社の秋まつりでの、蛇女,ロクロ首などの見世物小屋や、サーカス、そしてオートバイに乗って大きな樽の中をぐるぐる回るパフォーマンス、さらには全国チンドン屋大会が本宮で開催されたことなど、懐かしい思い出で話が尽きません。


この本宮宿の歴史は戦国時代に今の北町を中心として宿場町が形成されていましたが、秀吉の采配で越後より会津に転封した上杉景勝の重臣直江兼続から、この地を与えられた旧三春田村氏(田村仕置により改易)の臣小沼貞長が、安達太良川以南一帯の荒れ地を造成して南町を造り、以後、奥州街道、会津街道、三春街道、そして相馬街道の交わる交通の要所追分があり各地からの物資集散の中心地として発展してきました。






古くから「花の本宮」とうたわれ、奥州街道屈指の賑わいを見せており、その街並みは、阿武隈川支流である安達太良川を挟んで、江戸側(南側)の上町、中条、下町を「南町」、そして川の北側の荒町、中町、大町を「北町」と区分されていました。

その南町末が太郎丸という地区となります。

また、飯盛り女の多い宿場としても知られ、井原西鶴の「好色一代男」や「一目玉鉾」にも登場し、人形浄瑠璃にも「奥州街道の本宮なくば、何をたよりに奥がよい~♪」と謡われるほどでした。


天正13年11月17日に開戦した伊達政宗最大の危機とされる「人取橋の合戦」の舞台となる本宮人取橋は、本宮宿太郎丸にある今の観音堂から奥州街道と分岐し、五百川沿いの会津街道と瀬戸川とが交わる付近にあります。

この戦いは、同年10月8日、二本松城主畠山義継が、伊達政宗の父輝宗を拉致して伊達勢の追手によって輝宗と義継が同時に討たれるという事案が発生、政宗は父輝宗の初七日が明けると弔い合戦として田村氏・相馬氏の兵を合わせて一万三千の兵(人取橋戦へは7千が出場)を率いて二本松城攻めを開始します。

一方、伊達政宗の仙道(現福島県県中地域)進出を阻止と畠山氏救援のために常陸佐竹義重・義宣を中心に会津芦名亀王丸、須賀川二階堂阿南、岩城城主岩城常隆、石川城主石川昭光、白河城主白川義親・義広など仙道・南奥州の諸大名らが約3万兵にて迎撃し「人取橋」付近にて戦が勃発します。


戦いは圧倒的な数に勝る佐竹以下の連合軍が終始優勢で、伊達勢の老将鬼庭左月斎良直や伊達成実の善戦のお陰で、多数の犠牲者を出しながらも何とか本宮城へ帰還することが出来ました。

尚、この戦いで両軍合わせてあまりにも多くの人が討たれたために、「人取橋」と呼ぶようになったと伝わっています。









「太郎丸」という地名の由来ですが、耶麻郡太郎丸村(現喜多方市豊川町米室)を本拠とした会津芦名氏の家臣に太郎丸掃部(芦名氏庶子)という武将がありました。

天正13年(1585)5月、太郎丸氏は、伊達政宗が会津蘆名氏と戦った「関柴合戦」に際して同じ芦名家の家臣松本備中守が伊達政宗に内応しているという嫌疑があって政宗が占領している桧原への備えとして入田付村に派遣されますが、太郎丸氏もそのまま伊達勢の組下に加わってしまいます。

上記の人取橋の戦いの折にも伊達勢は本宮に本陣を置き最前線の高倉、青田原に軍勢を配して連合軍と対峙していますので、太郎丸氏も伊達勢組下として本宮に布陣していたと思われますが、この辺りに何らかの関りがあったのではないかと考えています。







蒼龍謹白  さすけねえぇぞい三春! 疫病撃退祈願 拝



| ryuichi | 04:00 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |