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塵壺358号 三春城下新町と旧磐城(岩城)街道 令和3年5月発行



塵壺358号 三春城下新町と旧磐城(岩城)街道 令和3年5月発行

自由民権運動研究の第一人者である当家出身の髙橋哲夫氏の著書を、時々読み返しています。
 その中の一冊「福島自由民権運動史 その踏査と研究」のあとがきに、当家に関する初めて知る驚くべき記述がありました。

それは「かつて羽二重(絹織物)工場を営んでいたが大正7年頃には第一次欧州大戦(第一次世界大戦)終了後に到来した世界大恐慌のあおりをうけて経営するささやかな羽二重工場は、ひとたまりもなく倒産し、それからずっと工場は閉鎖…」というものでした。





当三春昭進堂髙橋家の初代民四郎は、三春家畜市場門前である現在の場所に商機を見出して買い求め、商いを始めたとは聞いていました。
また、その商いも様々な商売をしていたと伝わっていますが、まさか羽二重工場を経営していた事、そして、世界恐慌のあおりを受けて倒産し民四郎とおタリ夫妻は途方に暮れたということなどは、昭和8年生まれの父も聞いたことは無いということでした。

その後、妻おタリは持ち前の気の強さで果敢に商売に挑み、現在の饅頭屋に落ちつきますが、夫である民四郎は商売の失敗が響いたのか、読み書きソロバンが堪能ということで弓町新地遊郭や畜産組合での書記や会計の仕事、さらには祭礼での露天商~という下りと相成ります。








幕末から明治初頭より、三春城下新町は三春から磐城(岩城)地方に通ずる旧磐城街道の城下からの出発点として賑わいをみせた新興商人街で、その町割りやセリ市場開設など藩の政策が明治期以降も生かされ、大商人や遊里が軒を並べていました。

今でも新町の民家には一軒一軒「屋号」が付されているのは、当時のなごりです。
自由民権運動家松本芳長の生家「移屋」もその一軒で、初代当主の出身地「移村」に因んだものでしょう。
その他、油屋、春野屋、谷家、岩城屋、仙台屋、亀屋、浜野屋、金屋、飛田屋、山屋、割野屋、長門屋、四海屋、松本屋と呼ばれる家が、明治初頭から昭和40年代にかけて、

大半が農家や職人(大工、石エ、鍛冶)に転向して生活していました。






実は、三春の自由民権運動にとって、その事に重大な意味があり、時の県令三島通庸(みしまみちつね)の時代。旧磐城街道(現国道49号線の原型)の道路改修工事によって自由民権運動の盛んな三春城下を避けて通るルートに変更されたために新町一帯はかつての交通上の要路としての地位を転落して衰退の一途をたどり、商人達は半農や職人
に転向せざるを得なくなったというものです。


上記の「移屋」が新町第一の家であったことは、古老の話やその屋敷跡からも十分うかがわれ、明治十六年に六棟あったといわれる土蔵(酒倉)の中、昭和40年代までは二つだけが残り、その中の一つは「文庫倉」と呼ばれ、おびただしい書籍の類がここに保管されていたのでした。

 現在は一般のお宅となり屋敷の形跡はありませんが、屋敷跡の奥に残る大井戸跡は、かつての酒造に用いられたものであろうと想像できます。






 江戸時代中期、秋田藩政の三春城下における町屋(商工業)は、明和八年の「町内屋号覚」によると、大町62軒、中町4軒、八幡町12軒、北町31軒、荒町30軒、新町43軒の計182軒で、塩問屋·肴問屋·紙問屋·たばこ問屋・鉄問屋·木錦繰綿 茶問屋、炭問屋をはじめ、麹屋、染屋、質屋、薬屋、太物屋(たんもの・呉服屋)·小間物屋·水油、素麺屋などの店が記されています。





 城下町三春は、会津蒲生氏の統治以降、大店が店を構え江戸街道や会津街道、磐城街道、相馬街道、二本松街道の大きな五街道が交わる物流・文化の中心地として栄えます。主産業である米穀をはじめ、いろいろな品物の集散地でもあり、他領からは塩、瀬戸物·綿糸、砂糖、小間物、鍬(農耕具)など多くの物が入り、領内からは米や煙草や繭などが出て行きました。


     蒼龍謹白 With三春城下 さすけねぇぞい三春!  拝


| ryuichi | 04:30 | comments (x) | trackback (x) | 「塵壺」 三春昭進堂 |