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三春物語153番 「下国家安東氏」


下国家安東氏
安東氏(あんどうし)は、日本の中世に本州日本海側最北端の陸奥国、津軽地方から出羽国秋田郡の一帯を支配した豪族でした。
津軽安藤氏ともに、本姓は安倍を名乗ります。
鎌倉期には御内人として「蝦夷沙汰代官職」となり、室町時代には「京都御扶持衆」に組み入れられたと推定され、後に戦国大名となった。
近世以降は三春秋田氏を名乗り近世大名として存続し、明治維新後は子爵となります。

経緯の詳細は不明であるが、室町時代に入ると下国(しものくに)と上国(かみのくに)の二家に分かれ対立したと見られている。
上国家は出羽小鹿島や出羽湊(現秋田市)を領し、後に秋田郡を制して秋田城介を称した。
一方、津軽を領した下国家は15世紀半ば頃、東の八戸方面から勢力を伸ばしてきた南部氏に追われ、いったん蝦夷島に逃れた後、室町幕府の調停で復帰したものの再度蝦夷地に撤退、更に出羽に移り檜山(現能代市)を中心に出羽最北部西半から蝦夷地南部を領した。下国家と上国家は、それぞれ陸奥国北辺と出羽国北辺で蝦夷管領の役割を果たしていたとも考えられる。
この頃から「安藤」の表記を「安東」とする。
更に、室町幕府の奥羽大名施策において、両安東氏を「屋形号を称する家柄」として秩序立てていた。

出羽南遷前の安東康季は、若狭国羽賀寺の再建に際して「奥州十三湊日之本将軍」と称し、天皇もその呼称を認めていたということが知られている。
初代安東政季は、分家の潮潟安藤家出身であったが、下国家の蝦夷島撤退のころ南部氏の捕虜となり、まもなく南部水軍の根拠地であった、現むつ市である田名部を知行し「安東太」を称した。
これを、南部氏が政季を傀儡とし北方海域の各地に広く分布していた安藤氏の同族を掌握したため、北方海域の安定化と幕府権威の浸透につながったとし、このとき下国家は断絶し潮潟安藤政季から新たに檜山安東氏が始まるとしている。
しかし政季もまた南部氏と対立し戦闘に敗れて蝦夷島に撤退している。
このとき、三守護職を代官として設置した「道南十二館」ことが『新羅之記録』に記載されているが、実態は安東家政、或いは安東定季が一人守護として統括していたとする見解も出されている。

下国家は安東政季以降、津軽と隣接する出羽国河北を本拠地とし、津軽帰還を試みたが果たせなかった。
1456年(康正2年)、「河北千町」を領していた、葛西秀清を政季・忠季父子が滅ぼしてここに本拠を構え、政季が築城を開始して忠季が1495年(明応4年)頃に修築を完了したのが、檜山城である。
以後、尋季、舜季、愛季、実季まで5代にわたり下国家檜山安東氏の居城となり、ここを本拠に陸奥国比内、同国阿仁方面に勢力を拡大したと見られる。比内と阿仁が出羽国の一部として扱われるようになったのは、これ以後と推定される。
忠季以降の安東氏は、檜山築城や寺院建立を行う一方で蝦夷島の経営にも努め檜山屋形と称した。
しかし、次第に蝦夷島が安東氏の統制から離れ始め、特に蝦夷において被官であった蠣崎氏が上国守護職に加えて松前守護職を名乗ったことを追認せざるを得なくなるなど、室町末期の戦国前期には実質上北出羽の一豪族となった。
しかし、下国家はなおもかつての勢力圏の支配の意欲を捨てておらず、「東海将軍」を称して内外に出羽、陸奥北部から蝦夷にかけての支配圏を誇示しようとした。
特に舜季は蝦夷地に渡り蠣崎氏とアイヌとの講和を仲介するなど蝦夷に対する一定の権威を示している。



宍戸から運んだ、秋田愛季公墓石



| ryuichi | 08:58 | comments (0) | trackback (x) | 🌸三春藩主 安東秋田氏 |
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