2024-05-27 Mon
岩江・大峰の和尚坦 大豆生田道綱物語 磐越東線舞木駅の南方、旧三春・郡山街道からほど遠からぬ山の頂きに大きな古い大きな塚があり、里人達は”和尚壇”と呼んでいた。
今から約五百数年前の室町時代永享10年、第4代鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発し、室町幕府6代将軍足利義教が、持氏討伐を関東管領の命じた戦い「永享の乱」。
この敗れた、鎌倉公方足利持氏一党と共に、鎌倉の永安寺で自刀した叔父の稲村公方足利満貞の弟満直が、後難を恐れて落ち延びて、奥州白川(白河)の関川寺に入り、自分だけ仏門に帰依してしまいます。
この時、一緒に逃れた満直の家臣で、矢吹の住人大豆生田道綱は、安住に後を探して名地を逃げまわった末に、正神平(現下舞木地内)に来て一寺を建て関根山積雲寺と称し、沙弥道満と称して出家して仏門に入り佛に仕えていました。
しかし、関東管領は、追討の追っ手を差し向けます。
管領の内意を受けた、時の田村庄司、守山の田村庄司家では、その家臣下枝舘の橋本刑部太夫利政をしてこの積雲寺を攻めさせます。
永享十年(1438)、鎌倉公方足利持氏が幕府と対立して起こした「永享の乱」に際して、幕府は南奥の国人十二名に持氏を攻めるよう御教書を下しましたが、そのなかに田村遠江守がいます。
この遠江守は田村氏の系図などから田村直顕と推定されている方です。
関東で起った永享の乱、それにつづく結城合戦によって、鎌倉府体制は崩壊します。
その後、持氏の遺児が赦されて新公方となって鎌倉府が再興されたが、新公方成氏は管領上杉氏と対立して「享徳の乱」を引き起こし、この事態に室町幕府は、鎌倉公方成氏追討を大々的に行い、将軍義政は関東・奥州の諸将に軍勢催促の御教書を下しました。
その中に「田村次郎と田村一族」の名があり、「直朝と談合加え」て進発せよとある。
道綱は全てをあきらめて縛につき、ついに寺・堂宇は焼かれてしまいます。
永享十二年六月のことだが、こんな非境に立ちながらも一族、里人に危難の及ぶことを恐れて潔く生き埋めの刑に服することになります。
これを知った、一族郎党や里人たちの悲しみはその極に達します。
道網は、白い法衣に念仏鐘を首にかけ、小量の水を持って生理の刑場に向ったとこう沿道の郎党や里人たちの号泣は、道綱をかこんで止まず。
やがて通綱は北方のお寺跡の方に向い悲しくも処刑されてしまいます。
里人たちは、一夜を付近で泣きあかしたが、生理めになった道綱の打つ念仏の鐘の音が地下から三日三晩に亘って悲しく響いたといわれています。
生理の枢の上方には、竹の節を抜いて地上まで出して呼吸が出来ねようになっていたとのことです。
いまの間明日屋数は、大豆生田道綱の遺族が帰農しにとこねで、元は大豆生田と大豆生田と書いて、間明日といったそうです。
いまもなお間明日の雑木林の峰の上に鎮座する和尚壇と称される黒く巨大な塚が風雨に曝され、寂しく昔の物語を伝えています。
また、その周囲には全滅したと伝えられる間明田屋敷の墓碑が無気味に乱立していて詣でる人達の涙を誘っている。
丑三つの刻、この雑木林の峰を通ると、無気味な鐘の音が土の中から、泣くが如く、むせぶが如く聞こえてくるという身の毛もよだつ昔話が残っています。
尚、積雲寺跡は現在の旧農協岩江支所建物の北側に焼けた石などと共にありますが、和尚檀は、支所の正面に見える磐越東線南に小高い峰にあり、直径20メートル、高さ10メートルほどの円形の檀でした。
三春町公民館 地区高齢者学級編 「おらが里のざっと昔 その1」 平成元年発行 参照
編集、及び発行に対しまして、敬意を表します
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:37 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧岩江村::上舞木 |
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