2009-08-04 Tue
羽織袴の活弁士「島暁蘭」と「三春座」 三春昭進堂主人 髙橋龍一
昔から三春では大衆芸能として芝居、義太夫、端唄、小唄などが神社やお寺のお祭りで演じられていました。
明治30年に、劇場として常舞台と呼ばれた「三春座」を、自由民権運動家で福島事件に連座した松本茂が、釈放後に三春大神宮参道左手の櫻川に面したところに創設します。
初期の三春座は、地方巡業の旅芝居が主で、松本は旅役者に実物の鎧甲冑や刀剣を貸し、そのままそっくり持ち逃げされたこともあったと伝えられています。
大正期になると三春城下に活動写真が登場します。
当時は、すべて無声(サイレント)映画なので、解説者とも云うべき「活動弁士」が大衆娯楽の花形として大きな役割を果たしていました。
これにバイオリン、クラリネット、太鼓、三味線などを入れての和洋合奏の楽隊が、舞台の袖で独特のメロディーを奏で場内を一種特有な熱狂的興奮に巻き込んでいました。
三春座の人気弁士は、羽織袴に白足袋姿で熱弁をふるった島暁蘭でした。
島は、徳川無声門下の西村楽天の弟子で、西村暁夢、葛城暁雨、岡庭海洋、山田楽亭らと共に県内各地で活躍していました。
地方での上映とは興行師による巡業だったので、三春座の人気弁士である島は弁士だけの仕事にとどまらなかったようです。
自ら台本をつくり、役になりきり、映画をより魅力的なものに仕立て上げるのは勿論ですが、一癖もふた癖もある映画の巡業興行師や一筋縄ではいかない宣伝担当の先乗り巡業隊との折衝・交渉、そして映写技師や楽隊を招き、近所の看板屋に看板絵や“いなり”と呼ばれた幟旗の手配などといった映画の業務全般を取り仕切っていました。
大正の末期から昭和の初めにかけてはチャンバラと西洋大活劇が人気を博し、中でも尾上松之介、板東妻三郎など銀幕のスターの演ずるチャンバラ物を見て子供たちは心をおどらせ、島の語り口調と独特のメロディーを口にしながら、学校の休み時間に真似をして遊んでいたと聞き及んでいます。
昭和に入って島は、自宅近くの荒町高乾院下に「大衆座」という映画館を創設していますが、映画の技術が発達して、音声が入るトーキー映画が普及するようになって以後は、寄席から劇場、そして映画館へと移り変わって活動弁士は不要となってしまいます。
大衆座も、昭和7年にはそのあおりを受けて閉館しますが、建物はいわきに移築され、島は猪苗代で映画館の経営を再開しています。

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