2026-04-17 Fri
塵壺418号 大河ドラマ「豊臣兄弟!」と三春城主松下氏 令和8年5月発行
木下藤吉郎(日吉丸)、後の太閤豊臣秀吉が最初に仕えた侍は、松下加兵衛之綱(まつしたかへいゆきつな)という地侍でした。
松下之綱は、江戸時代初期の三春城主松下長綱公の祖父にあたる方で、天文6年(1537)、松下長則(ながのり)の子として三河国碧海郡松下郷(豊田市)に生まれ、元服して通称を加兵衛としています。
松下家は、今川家臣の飯尾(いのお)氏に寄子として仕え、やがて遠江国頭陀寺城(ずだじじょう・浜松市)を与えられて城主を務めました。
正確な時期は不明ながら、藤吉郎は之綱の城主時代に仕えていたようで、之綱は藤吉郎と同年齢であり、まだ10代だった藤吉郎が仕えたのは、之綱の父である長則だったのか、父の後見を受けながら之綱なのか詳細は伝わっていません。
松下家に奉公した藤吉郎はドラマでも描かれているように、明るく積極的で機転の利く才覚だったようで、藤吉郎を之綱は可愛がり兵法と槍術を指導したと伝わっています。
しかし格式や序列・秩序を重んじる旧来の家臣や同僚からは、嫉妬が集まって人間関係で齟齬をきたし、仕方なく之綱は藤吉郎に暇を出します。
永禄3年(1560)の桶狭間合戦で今川義元が討ち取られると、まもなく今川家は滅亡、之綱は松平元康改め徳川家康に仕官します。
之綱は、武田勝頼勢との最前線である高天神城(静岡県掛川市)の守備に出陣して、武田勢を迎撃していますが、天正2年(1574)に武田勢の猛攻にあい高天神城が陥落、
之綱ら籠城組は武田勢に降伏し捕虜となってしまいます。
後に、羽柴秀吉(藤吉郎)によって召し出され、その家臣として仕えます。 天正3年(1575)の長篠合戦の際には、秀吉の前備として出陣しています。その後も之綱は秀吉に
忠義を尽くし、武功によって丹波国・河内国・伊勢国などに3千石の知行を与えられました。
秀吉は、若いころに受けた恩義を忘れていなかったのでしょう、天正15年(1587)、之綱に従五位下の位階と石見守(いわみのかみ)の官職を与え、丹波国に知行3千石を加増し6千石となっています。
さらに秀吉が天下を統一した天正18年(1590)、之綱は遠江国久野(静岡県袋井市)に1万6千石を与えられ久野城主となりますが、慶長3年(1598)2月、62歳で世を去り、家督は次男の松下重綱(しげつな)が継ぎます。この重綱の正室が、豊臣恩顧「賤ヶ岳の七本槍」のひとり加藤嘉明の娘だった事で、加藤家の与力大名として豊臣政権下での地位を確立していきます。
さて、三春城主となる松下氏。寛永4年(1627)の正月に、会津藩主の蒲生忠郷が亡くなると、伊予松山城主加藤嘉明が入れ替えとなって会津40万石を拝領、三男明利が三春3万石、娘婿の松下重綱が二本松5万石を拝領。
後に、重綱が亡くなると翌年正月にはその嫡子長綱が、明利と交替で三春城主となり、寛永21年(1644)に改易されるまで松下石見守長綱として三春を治めました。
※トリケ(発狂)の薬として削られた長綱公の墓石
長綱は、三春入城後に先の城主三春田村家の伊達家へ吸収合併以降、久しく荒れていた三春城の城郭や石垣を補修し、城下全体を城郭とする中世城郭都市として整備改修し“東北の鎌倉”と呼ばれる現在の三春城下の基礎を三春在住17年の間に創り上げます。
豊臣政権に代わって徳川の世になりますと、豊臣恩顧大名の御取り潰しが始まり、寛永20年(1643)、会津藩主加藤明成が封地返上というお家騒動『会津騒動』で、会津領が幕府により改易の上収公されます。
松下家も例外ではなく、翌正保元年、長綱の切支丹(キリシタン)の嫌疑がかかり、妻の父である土佐藩主山内忠義(ただよし)が、長綱が乱心発狂したので領地を幕府に返したいと願い出て、それが許可されて城地召し上げの上、三春松下家は改易取り潰しとなります。
改易になった長綱は土佐藩山内家に預けられ、松下家の家督を継いだ二男の長光が江戸幕府寄合旗本として松下家の家名は後年まで存続しました。
三春城下新町にある曹洞宗天翁山州傳寺は松下家の菩提寺で、この山号は長綱の祖父加兵衛之綱の法号天翁長珊(てんのうちょうさん)に、寺号は重綱の法号州伝寺殿にちなみます。
長綱の墓所は、現在も高知市の真如寺にありますが、州傳寺山内の墓所には重綱、長綱、豊綱(長綱の子)松下三代の墓があり、町の史跡に指定しています。
今後、「豊臣兄弟!」に松下氏は登場する機会はあるのでしょうか…期待したいですね!
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!
| ryuichi | 03:41 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
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