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上杉領会津 幻の神指城 上杉景勝と直江兼続 城下造りの夢





天正17年(1589)7月、伊達政宗は三春田村氏と共に、”摺上原の戦い”で会津の蘆名義広勢を撃破し、念願の会津領を手中にします。

しかし、天正15年(1587)に豊臣秀吉が発令した「惣無事令」を無視する行動であったため、天正18年(1590)の奥州仕置きで政宗は会津の所領を没収されました。

その後、秀吉の命令により会津領を三春領など飛び地も併せて92万石で蒲生氏郷が拝領しますが、文禄4年(1595年)2月7日、氏郷は40歳の若さで病死してしまいます。

後を嫡子・秀行が継ぎましたが、お家騒動から宇都宮12万石へ減封されてしまいます。

太閤秀吉は、上杉景勝を会津へ移封することを決めます。

豊臣政権下では五大老の1人を務め、越後46万石、従三位中納言の位にあった景勝は、慶長3年(1598年)、石高120万石に破格の加増をされ会津入りをします。


これで石高は豊臣政権下では徳川、毛利に次ぐ3番目の席となり、以後「会津中納言」と呼ばれました。







慶長3年(1598年)8月、死を悟った秀吉は、五大老筆頭で内大臣・徳川家康に対して秀頼の後見と政務代行を依頼しますが、同時に五大老宛てにも遺言書を記し、8月18日、太閤秀吉はその生涯を終えました。


豊臣秀吉の死後、従二位・内大臣の家康が官位で最高位になり、秀吉からの遺言を無視、生前の秀吉より禁止された、五大老・五奉行の合意を得ない大名家同士の婚姻を強行、しかも婚約した娘は、全て家康の娘や養女であったことから、石田三成が反発し家康と度々対立、大納言・前田利家が仲裁に乗り出す騒ぎとなります。


このことは、当然、石田三成から直江兼続へと知らされ上杉景勝の知るところとなります。

慶長5年(1600年)2月になると、景勝は夏までに領内諸城の補修を命じ、3月になると会津若松城(鶴ヶ城)が将来手狭になると考え、会津盆地のほぼ中央に位置する神指原(こうざしばら)に新城(神指城・こうざしじょう)の築城を直江兼続に命じます。


この景勝の動向は、「上杉の戦準備」として、近隣の大名である最上義光や堀秀治らによって逐一家康に報告されていました。

また、慶長5年3月11日、内府家康と景勝の関係の修復に努めていた上杉家臣の藤田信吉が上杉家から追放されます。

4月、家康から景勝に上洛するように命令が下されますが、これを拒否、この際、兼続による挑発的な返答とされる所謂」「直江状」が家康の会津征伐を煽ったとされます。

一説には、これは予てから石田三成と直江兼続が相談し家康を遠国である会津に釘付けにしている間に、三成が背後から家康を挟み撃ちにするという作戦だったとも、また、直江状そのものがなかったとも言われていますが、事実、家康は自ら大軍を率いて会津征伐へと出陣しています。

それに伴い奥州の徳川派の諸将も臨戦態勢に入ります。






一早く伊達勢は上杉領に突入し白石城を占領、最上義光もまた豊臣秀次事件で理不尽にも連座させられ命を落とした 娘・駒姫の件を大いに恨み、家康の命にしたがいます。

一方、家康出陣の報を聞いた景勝は神指城の突貫工事を命じますが、6月になると普請を中断して各街道へ徳川の軍勢の迎撃対応にあたります。
これにより神指城は完成を見ることなく幻の城となりました。

この隙をついて7月、石田三成らが挙兵、一報を聞いた家康は、下野・小山で「小山評定」を開き、その結果、宇都宮に次男・結城秀康を上杉対応に配置し、四男・松平忠吉を総大将に任命し西へと反転していきました。


上杉景勝と直江兼続が築こうとした会津の新城・神指城hは、縄張りを見る限り、軍事目的のみで築かれたものではなく、明らかに阿賀野川の河川交通を意識したもので、景勝はそこに新たな経済効果を狙った城下町を築くつもりであったことが近年の調査で明らかになってきたと思います。。






尚、たれれば派禁物でしょうが、もし完成していれば会津若松城(鶴ヶ城)の2倍の規模で、東日本最大の城となっていたと言われます。


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| ryuichi | 03:42 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録 |