2021-02-28 Sun
今回の塵壺を調べるにあたって当家出身の自由民権運動研究の第一人者髙橋哲夫氏の著書を数冊読んでいました。
その中の一冊「福島自由民権運動史 その踏査と研究」のあとがきの中に、当家に関する初めて知る記述がありました。
当新町髙橋家の初代民四郎氏は込木柳作から芹ケ沢の土地を譲り受け、その後現在の場所に移って、商いを始めたとは聞いていました。
その商いも様々な商売をしていたと・・・
その中に羽二重(絹織物)工場を経営していた記載されていました。
この事は昭和8年生まれの父も知りませんでした。
さらに、その工場は第一次欧州大戦(第一次世界大戦)後の世界恐慌のあおりを受けて倒産し民四郎とおタリ夫妻は途方に暮れたということも記されていました。
その後、おタリは持ち前の気の強さで果敢に商売を模索して、饅頭屋に落ち着いたという下りに繋がります。
そして、夫である民四郎は商売の失敗が響いたのか遊郭や畜産組合での書記や会計、さらには祭礼での露天商・・・友人たちと昼から酒を呑んでは時事を語り合っていたそうです。
以下は、上記のあとがきよりの文面です。
私の子供の時の古い記憶といえば、いつも最初に浮ぶのが、何か悪いことをして析艦されるときに、きまって裏の家(主家と離れた廃工場)に投げ込まれた思い出である。
その工場には幾つかの機織台が、興妹の巣やほこりにまみれて置かれてあった。
昼でもうす暗いその部屋には、どこかのふし穴から、さっと日光が何本か斜に走っていた。その光をじっと眺めていると、無数の微芥がうごめいていたりしているのを、泣きじ。くった顔で、ぼんやり眠めていたものである。
「裏の家に入れるぞ」これが兄弟たらにとって、一番恐ろしい宣告であったのである。これは、おそらく、私が五、六才の頃のことであるから、大正11年前後であったものと思われる。
すこしものごころついてからわかったのであるが、大正7年第一次欧州大戦の終了によって到来した大恐慌のあおりをうけて、父の経営するささやかな羽二重工場は、ひとたまりもなく倒壊し、それからずっと工場は閉鎖され、子供達の折艦の場と変貌していったのである。
この工場がいつ頃とりこわされたのかは覚えていない。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2021-02-26 Fri
「先憂(せんゆう)」 三春自由民権運動
幕末から明治という激動の時代。時代に翻弄され、挫折や犠牲を繰り返しながらも、「先憂(せんゆう)」という高い志を持って近代日本の礎を築いた三春の若い自由民権運動家達。
「先憂」とは、北宋の政治家范仲淹(ハンチュウエン)が著した『岳陽楼の記』の一説“天下の憂いに先立ちて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ”即ち「政治家は常に国民のことを真っ先に憂えるべき」という言葉からの引用で、明治初頭の三春に於ける政治思想の根幹です。
自由民権運動とは、まだ、日本国に於いて国会はもちろんのこと憲法さえも存在しなかった時代、国民が国政に参加する自由と権利を獲得することを目的として全国的に広がった民間の政治運動で、明治7年(1874)、旧土佐士族板垣退助、後藤象二郎らが「民撰議院設立建白書」を提出したことが始まりとされています。
板垣らは、この運動のために全国的な組織「愛国社」を大阪に結成し、今では当たり前となっている国会の開設や 憲法の制定などを政府に求める活動を展開していました。
一方、三春における自由民権運動は、河野広中(こうのひろなか)を中心に、多くの同志たちと民権運動に参加し、三春に政治結社「三師社」、青年活動家を養成する学塾「正道館」を創設、館内には「三春先憂社」を組織して討論演説会を開始し数多くの運動家の育成を図ります。
また、東北初の政治雑誌「三陽雑誌」を発行して政治思想の教育に努め、多くの若き自由民権運動家たちを輩出します。
尚、「三陽雑誌」は第1号から第4号まで発行されましたが、発行部数の少なさと、時間経過等の中で長年その詳細な全容は不明でしたが、昭和50年から発行の「三春町史」編纂の際に、その全巻が発見され現在は三春町歴史民俗資料館内・自由民権運動記念館に自由民権運動研究家の第一人者で当家出身の故高橋哲夫氏所有の研究資料と一緒に自由民権運動の貴重な資料として収蔵されています。
これらの活動によって「西の板垣(高知)、東の河野(三春)」と称され、わが国最初の政党「自由党」の結成には代表を送り、政党活動にも積極的に拘わるなど三春は東国に於ける自由民権運動の中心地となっていきます。
明治 15(1882) 年、「鬼県令=県知事」とまで呼ばれた旧薩摩士族三島通庸(みちつね)が福島県令になり、政府の意を受け自由民権運動を強力に弾圧したため、福島県議会議長(後の衆議院議長)河野広中(福島民友新聞創刊者)らとの確執が続き議会は何度も紛糾します。
その最中、三島は会津三方道路の建設に着手します。この計画は将来を見据えたものではありましたが、農民たちの過酷な労役などの建設手段には大きな間題がありました。
この農民たちと一緒に、三島に弾圧され続けた三春正道館などで志を同じくした自由民権運動家たちは、三島に対する憎しみを強め、その反対運動・農民運動を展開することになります。
同年 11月28日、喜多方市塩川町の“弾正ケ原”に千人以上の自由民権運動家や農民が集まりその反対運動は頂点に達しますが、明治政府の力を背景とした三島は、大弾圧を強行し河野広中・田母野秀顕(たものひであき)ら、三春出身者10名を含む、多数の運動家を逮捕します。
これを『福島事件』と呼びます。
その翌年、三島が栃木県令として転任すると、残った自由民権運動家たちは三島通庸の追討として栃木県庁爆破未遂を起こします。
明治17年には、一連の三島暗殺を含む自由民権運動弾圧の反対行動は過激さを増し、最後は茨城の加波山で挙兵します。
後に「加波山事件」と呼ばれ、河野広中の甥である河野広躰(ひろみ)や琴田岩松など、三春人5名を含む多数の運動家が捕えられます。
彼らは、政治行動として逮捕も覚悟しての挙兵でしたが、国事犯としてではなく一般犯罪者として処刑されてしまいます。
以後、明治政府も、上記の一連の自由民権運動の高まりの結果もあり近代国家として国会の開設や憲法の発布の必要性を認め、明治22年大日本帝国憲法が発布され、翌年には第1回の衆議院選挙が行われ「帝国議会」が発足しています。
蒼龍謹白 With三春城下! さすけねぇぞい三春! 拝
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2021-02-24 Wed
本日、令和3年2月24日の水曜日は、代休とさせていただきます。
どうぞよろしくお願いいたします。
いつになく桜餅の売り上げが好調です!
しかも、小さなお子さんが食べたいといって買い求めてくださいます。
気になって聞いてみると、「鬼滅の刃」の登場する恋柱・甘露寺蜜璃(かんろじみつり)というキャラクターの大好物が「桜餅」ということでした~
「鬼滅の刃」の効果がここでも一役買っくれています!
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
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2021-02-23 Tue
本日、令和3年2月23日は真照寺初寅祭典、そして、天皇誕生日の祝日ということもあり三春昭進堂は通常営業となります。
明日、24日(水)を代休とさせていただきます。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
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2021-02-22 Mon
三春町消防団 三春分団 厳冬期三春城下の2月特別警戒 2021
例年、三春分団が、酷寒の二月十六日から同二十一日にかけて、「三春分団二月特別火気警戒」と称して、7つの部日替わりで一週間、消防車両と徒歩にて、全町広報を実施しています。
この時期に実施している理由は、下記の資料が示すとおり、戦後三春分団が経験した大火を、防火の戒めとして後世に伝え、三春分団員のみならず町民の防火意識の高揚と共に、二度とこのような惨事を起こさないとの願いを込めて実施しているものであります。
1.県立三春高等女学校及び国民学校火災(現三春小学校)(三春町消防団史より抜粋)
出火年月日:昭和二十二年二月二十一日 午後11時ごろ
当夜は、ほとんど無風状態で、午後10時頃より小雪が降り、約三センチメートル程積もっていた。
最初に発見したのは三春郵便局員で、大声で急を告げ、付近の二~三人が関係機関に連絡し消火に協力したものであり、又、当夜の宿直は国民学校の教諭と常直小使夫妻がおり、午後六時三十分より巡視し、午後七時三十分頃就寝、何れも火災警報吹鳴によって目覚めたもので、その時は、職員室、二階教室、玄関等に火の手が回っており、重要書類、備品等の搬出の暇もなかったものである。
消火活動について見ると、当時校内防火体制は、防火用水(防火用桶?)も不完全なもので、中には満水していないものもあり、消火器が三本と他小学校と共用の「手押しポンプ」、「火たたき」、「とび口」等があつただけで又、同校は約10メートル程の高台にあり、周囲には小さな下水はあつたのであるが、消火に必要な水量はなく、大町通りの下水を堰き止め注水したものであるが、連絡を受けた近郊消防隊、郡山常備消防隊等、沢山のポンプ車が集まつたものの、非常に消火に手間取り、二十二日午前二時頃火勢も衰え延焼の危険は脱しとのであつたが、校内に重要書類を残したまま全焼鎮火したものであつた。
1. 三春中学校火災(三春町消防団史より抜粋)
出火年月日:昭和四十年二月十六日午後八時三十分頃
三春中学校の火災は、十五夜の寒空を焦がす炎と、惨惨たる黒煙をともなって発生した。
十六日午後八時三十分頃、三春中学校校舎東側から出火、木造二階建校舎二棟を焼き、同十時頃鎮火した。
火が出ると同時に三春町はじめ郡山、冨久山、船引町などから消防車が駆けつけたが、老朽校舎のため火の回りが早く校舎の三分の二を焼失した。
「八時四十分頃であった、ちょうどテレビでは、「お笑い三人組み」をやつていた。すると母が”火事でねえの?”と。・・・・母とぼくは、中学校近くの親類へ。・・・ぼくは、ねむれなかつた。」(当時の中学生の作文より)
蒼龍謹白 合掌
| ryuichi | 04:06 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下歳時・風土記 |
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