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本日、令和3年の「三春昭進堂菓匠蒼龍えびす講祭」です。


 
 令和3年「三春昭進堂菓匠蒼龍えびす講祭」 商売繁盛 祈願  三春昭進堂


令和3年の「三春昭進堂菓匠蒼龍えびす講祭」は、11月23日(祝・火)です。


恵比寿さま縁日の旧暦10月20日は、24日(水)です。

その日は定休日となる為に勤労感謝の日である23日の恵比寿講祭となります。


三春昭進堂では、恵比須様への商売繁盛 祈願、そして、お客様への感謝の記として「えびす講祭」にご来店のお客様には、日ごろの感謝を込めて「一口すあま」をプレゼントいたします。


両日とも、末広がりの八十八名様分を予定しています。









店内にえびす様の掛け軸を飾り、家にあるお金を一升枡に入れて供え、落雁用の魚の木型や旬の野菜なども供え、「えびす様大黒様」に対して、商売繁盛、財運に恵まれ、また子孫繁栄が叶う事を祈願します。





旧暦10月は晩秋ではなく初冬の時期なのであって、この月の行事には1年も、いよいよ終わりに近いという気分が込められている用に思います。


昭和8年生まれの父親は、この日に必ず、商家の小僧や丁稚が足袋を履けるのは、恵比須講の日からといっていました。









恵比須講は商人にとって非常に大事な行事であり、商家の正月のようなものであったようです。


業種によっても異なりますが、多くの商家では春から秋にかけての繁忙期、いわゆる「掻き入れ時」がほぼ済んで一年間の取引状況を総括して次年度への見通しと計画とを立てるべき時期にあたっており、この日に商売の神である恵比須神を祀って繁昌を祈願し、盛大な祝宴を催すことになっていたと伝えられています。





 


商いは、秋に実った果実を交換することに始まったといわれています。

このことから私どもは“手塩にかける”ことを学んでいます。

これこそが商いの原点であると思います。
 




   蒼龍謹白    合掌




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍




| ryuichi | 04:23 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
11月23日の火曜日は、「勤労感謝の日」の祝日のため通常営業いたします。 翌11月24日水曜日を代休とさせていただきます。




11月23日の火曜日は、「勤労感謝の日」の祝日のため通常営業いたします。


翌11月24日水曜日を代休とさせていただきます。





 
 令和3年 「えびす講祭」 商売繁盛 祈願  三春昭進堂


令和3年の「えびす講祭」は、11月23日(祝・火)です。


本来ですと恵比寿さま縁日である旧暦10月20日は11月の24日(水)です。


その日は定休日となる為に勤労感謝の日である23日(火)の恵比寿講祭とさせていただきます。


三春昭進堂では、22日㊊の午後から23日に、恵比須様への商売繁盛祈願、そして、お客様への感謝の記として「えびす講祭」にご来店のお客様には、日ごろの感謝を込めて「一口すあま」をプレゼントいたします。


両日とも、末広がりの八十八名様分を予定しています。










三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:09 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
2021年全国ツアー「I'm back!! ~ROCKは止まらない~」 やった!人生初の永ちゃんコンサート最前列❣️



2021年全国ツアー「I'm back!! ~ROCKは止まらない~」


やった!人生初の永ちゃんコンサート最前列❣️

いイェ〜 Rock’n’roll💕

2021年全国ツアー「I'm back!! ~ROCKは止まらない~」12月19日(日) 日本武道館公演をWOWOW で独占生中継決定!



この度、2021年12月19日(日)日本武道館にて開催する矢沢永吉全国ツアー2021「I'm back!! ~ROCKは止まらない~」公演のWOWOW独占生中継が決定しました。



矢沢永吉の日本武道館145回目となる記念すべき公演を是非お見逃しなく!





■番組情報

生中継!矢沢永吉 CONCERT TOUR 2021「I'm back!! ~ROCKは止まらない~」



■放送・配信日

12月19日(日)17:00~



■放送・配信サービス

WOWOWプライム / WOWOWオンデマンド



| ryuichi | 04:04 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「前向きな自惚れ」永ちゃん、最高❣️ |
塵壺364号 KFB福島放送「シェア」“ふるさとレポーター”田村大元神社 R3.11.19発行



KFB福島放送「シェア」“ふるさとレポーター”田村大元神社

私事ですが、この度KFB福島放送「シェア」番組内の地元の自慢やホットな話題を紹介する「ふるさとシェア!」で、ふるさとレポーターとして三春町を担当することになりました。放送時間は約2分強、頻度は月一回程度です。








  

このお話をいただいたときに真っ先に頭に浮かんだのが、子供の頃より祭礼や初詣、そして遊び場として慣れ親しんだ「田村大元神社」でした。

今回は先に放送されました内容をカットされた内容も含めて改めて紹介させていただきます。


田村大元神社は戦国時代の三春城主田村義顕公が三春城内三ノ丸となるこの場所に、旧三春藩領内総鎮守として「大元帥明王社」を郡山市の守山より移してきたのが始まりです。以来、時代と共に歴代殿様は変わりますが明治維新を迎える秋田氏まで続きます。






明治維新以降は「田村大元神社」となっていますが、今でも城下では「明王さま」(訛ってミオさま)と呼んで親しまれています。
伊達政宗も来たことがある・・・伊達政宗公の奥さま「愛姫」が、田村の三代の田村清顕公の娘という縁でこの大元帥明王を三春滞在の際に宿泊所としていました。

また、田村清顕公が宴席を設け、娘婿である伊達政宗以下、伊達成実や片倉小十郎などの伊達の重臣一同、そして、田村家からも当時100歳にもなるだろう田村家軍師田村月斎や、橋本刑部顕徳など田村家の重臣達が一堂に会して「杯」を酌み交わし、伊達・田村両家の戦種祈願や、安泰を願ったことでしょう。


現在、社殿そのものは新しくなっていますが、私も、祭礼や初詣などで拝殿に上がり御神酒を頂戴するたびに、目の前に広がるこの光景は、伊達政宗が、そして、歴代の三春城主が見た同じ光景・風景が広がっているのかなあと、歴史のロマンを感じ殿様気分を味わっています。





江戸時代の祭礼は、旧暦の6月15日、別当職城下新町の真照寺住職の監督指揮により三春藩明王奉行の下で三日三晩行われていました。

その際は近隣より大勢の祭り見物のお客さんが三春城下を訪れ、その監視と整理のために櫓を立て役人が寝ずの番をしたと言いますから、大変な賑わいだったと伝わっています。       


現在では新町鎮守「田村大元神社」として「海の日」付近に、宮司以下・神職、神社総代・別火講中等などの方々によって挙行され、祭典掛、御神輿町内渡御、長獅子舞、三匹獅子舞の奉納、さらには神旗持ちや神楽楽人の楽器持ちの子供たちやPTAの子供神輿や燈籠持ちも一緒に参加しています。


夕刻、祭終盤の「還御(かんぎょ)」の頃になれば、上は80代から下は小学生まで連帯感と親密度が深まり、世代も住む環境もまったく違う氏子というだけの様々な人々の人間関係が出来上がっています。

子供の成長には、親の庇護を離れ“世間の荒波”と云えば大袈裟ですが、そこで感じたものが、子供たちの今後の人生にどれだけ役に立つか計り知れませんよね。







そして、もう一つこの神社で紹介したいのはこの随神門(仁王門)に納まる「金剛力士像」、いわゆる「仁王さま」二体です。神社に金剛力士像?仁王様?仁王門と不思議に思う方もいるかと思います。

明治維新まで神仏習合の中で、明治を迎える前年となる慶応三年、仁王門が造られた際に守護神としてこの仁王さまも製作されこの門に安置されたという経緯があります。

明治維新後には仏教色の濃い「金剛力士仁王様」の二尊は、神社にはふさわしくないということで真照寺の軒下に仮安置されてきましたが、戦後になって戻され現在の姿になっています。

金剛力士像と云えば東大寺仁王像に見るような筋肉隆々、胸を反らして悪を威圧する姿を想像しますが、この仁王様を見るとお相撲さんのように全体的にふくよかで、少し前かがみの姿勢はどこか愛くるしいお姿をされており、まるで御利益を求めて参詣された方々に“何か優しく諭している“ようにも見えます。


 歴史と文化の宝庫である小さな城下町三春には、桜の時期以外にも沢山の魅力があります。


三春城下へのお越しをお待ちしています。

 #シェア!




   蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝



| ryuichi | 04:06 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
垢潜(あかしろ)集落の由来  




垢潜(あかしろ)集落の(桓武平氏流平将門一門・佐久間氏)由来  

鎌倉時代の末期で戦国時代、武士達の争いが続いた時代である。

その武将として関東に勢力を持っていた「平将門の乱」に敗戦、落人となり追われる身となる。

其の時、太平洋岸を今の浜通りを一族(佐久間氏)が奥州地えと逃れ、今日の平方面より阿武隈の山脈を越えて岩代國田村領に入り隠れる一族で、小野町辺りに一時舘を造り住んでいた様な話もあるが解らない。豊後舘の地名があるとか定かではない。(調査不足ママ)

それでも不安で山間の奥地を転々と流れ々現在の地(垢潜地区)に住み着いた佐久間伊勢守、豊後守と四郎兵衛兄弟十数の同志家来の一族共々「火雷神」を守護神にこの地に来たと伝わっている。

垢潜(あかしろ)の地名は、守護神一族共々にこの地を定めるに際し、武家を捨て武将としての今迄の懺悔を一切の垢を洗い落とすことでこの地に潜めた安住の地として垢潜と名付けた。守護神は今の在所に祠を造り安置した。

神様も墓地も開闢(かいびゃく)以来五百有余年の間移動していない。

でも、戦国の代であれば一族を守るため舘を造り一族を守りながら長寝舘(富澤舘とも云う)と名付けて畑道を造り生活しながら東西南北に開発したのである。








田村領主三春田村氏とも交誼をもたらすようになりて田村領北の守りに仕えた。

年代は不明だが長寝舘から移川を越して東方の守りに今の「青石」に出城として館を築き垢潜から分家、連絡を取りながら山を開き後世に杉沢村との境に青石の里青石村となる。

垢潜の里豊吾が長寝の舘より三春に通じる道路を切り開き富澤の里に通じる小道を開き生活セリ。

道は山の峯を虫送りの山なみを堂作の澤を下りて主幹道にした。

富澤村の中央と定め五本木集落に長寿山と名付け寶傳寺を建立、船引町昔の片曽根村の東光寺を本家寺として住職を迎えていたのである。

当時、協力せる郷族武田家、面川家なども協力した様子。

富澤村も和尚などの指導もあ加わり栄えたものと思われる。

垢潜集落は平地がなく山間の谷を開発し湧き水を利用して水田と成し田頭には至る処に池を造り米を作り畑は山なみの中腹を開墾し雑穀稗粟などにより生活した。

産業は江戸時代の初めより養蚕などをはじめ着物などを造り自活した。

時代は平和になり商いなども商人が出入りするようになり取引商売を出来て蚕を飼育繭を取り糸も自家で引えて絹織物も町に売り火雷神社を中心に一族の結束は固く互いに助け合ながら農
地を拡大し徳川時代は平和となりて、皆百姓にて身を立てた様子。当時屋敷戸数十五、六戸位。


世の進展に従い昭和の世には二十九戸となる。明治時代になって火雷神社の秋祭りには九反の大旗を立て垢潜部落雷神様の旗の音は實澤、青石、初森へと聞こえたそうで元来な豪傑も居たもので集落の団結力は察するに余りある。


垢潜集落の沿革 参照



佐久間氏は、桓武平氏流とする平将門(高望王良将系)一門の子孫としています。
佐久間氏の祖となる三浦氏は高望王良文流です。

佐久間氏は房総半島、安房国の佐久間郷に由来します。
三浦氏は、坂東八平氏の一氏で、三浦党とも呼ばれ、鎌倉時代に三浦氏の一族が佐久間郷の地を拝領して土地名の佐久間氏を名乗った事がはじまりとされています。




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:18 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧沢石村::富沢 |
三春人形を店内に配しました。




三春人形を店内に配しました。


これは、おたりまんじゅうの味噌でお世話になっている城下北町の中屋さんから借り受けた張り子の「三春人形」たちです。






ひな人形、踊り人形、唐人人形・・・







上方の影響を受けた上品な張り子の人形です。






とりあえず、一部ですが所狭しと並べてみました。







中屋の先代のコレクションです。



三春人形は、江戸時代、三春藩領だった高柴村(現在の福島県郡山市西田町高柴)の住人、戦国大名三春田村氏の宿老橋本刑部少輔顕徳の末裔となる方々によって作られはじめました。

この里を「ダルマ屋敷」「デコ屋敷」と呼ばれています。








高柴の人形師が三春の藩主秋田公の庇護を受けた事は、口碑や、僅かに遺る古文書に徴して疑う余地のないことではあるが、藩主と人形師との間にどのような形で、どの程度の関係があったかは、詳細には解らない。


会津藩における「赤べこ」、米沢藩における「笹野彫」などのように下級武士の内職として発達したというような様子はまったくないが、口碑によると人形師は三人扶持を給され、城下神社の鳥居内の店張りを特に許されるなどの特典を与えられていたようである。

しかし、人形師の身分については士農工商のいずれにも属さぬ、特殊な存在として取扱われたのではないかと思われる節がある。






恵比寿様、天神様、歌舞伎・助六、子供







さまざまなモチーフの張り子たち・・・








今にも踊りだしそうな躍動感が凄く良いんです!


俺らの張り子人形は三春の宝だと思います。







ご来店の際にはごゆっくりとご鑑賞いただければ幸いです。







時節によって入れ替えをしてお客様に楽しんでいただこうと考えています。






明治維新後、文明開化のあおりを受けて、人形に使用される染料に制限が加えられたりした。


これによりでこ屋敷の張り子や三春駒(木駒)の需要衰退と共に製作・販売も衰えはじめ、ダルマなどがわずかに制作されるまで衰退していましたが、昭和30年代の柳宗悦らの推奨する「民藝運動」の影響を受けた大阪のコレクターである本出保治郎氏に力づけられた高柴の人々と、故小沢太郎氏が、これを復興させた現在に伝わっています。






日本の文化的遺産の中で郷土玩具は見落してならないものの一つである。かつて玩具を豊富に持っていた国が概ね勃興し、乏しかった国が衰亡している事実から見ても、世界有数の郷玩国日本を改めて見直さなくてはならないのである。

かつて敗戦虚脱の 状態の中にあった時、私は この事実を挙げて、日本が敗北して再び起ち上れないような錯覚に陥ってはならない、という事をラジオで放送した事がある。

金くかつての日本の郷玩は質量共に溢れていたが、その中でも特筆したいのがこの三春人形である。

三春駒の名は知る人が多いのだが、張子の方は存外に知られていない。

これ等の名作は概ね過去の遺産だからである。







張子は型に貼って抜く関係から造型的には極度に単純化され、動きは殆んどなくて安定感だけが強調される気味がある。

達磨などがその代表的なものである。

ところが三春人形だけはこの制約にとらわれる事なく自由にのびのびと優雅な肢体に美しい律動を描き出している点で一寸張子の仲間に類例のない個性をもっている。







そしてその平和な円みと適度の甘さとが人を魅了せずにはおかないのである。

こうした世にも美しい作品を所有する事はもとより、見る事さえも覚束なくなった現在、多数の原色複製版を収めて三春人形の豪華な一大絵巻が上梓される事は感謝されるべきである。


三春人形   坂本万七撮影 小沢太郎著

橋元四郎平氏 あとがきに替えて 参照

武井武夫氏 三春人形讃 参照



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍





| ryuichi | 05:01 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春昭進堂菓匠蒼龍  |
本日火曜日は定休日となっています。「三春昭進堂の恵比寿講祭」告知




本日火曜日は定休日となっています。


またのご来店をお待ちしています。







尚、来週の11月23日は勤労感謝の日の祝日のため通常営業いたします。


翌11月24日水曜日を代休とさせていただきます。






 
 令和3年 「えびす講祭」 商売繁盛 祈願  三春昭進堂


令和3年の「えびす講祭」は、11月23日(祝・火)です。


恵比寿さま縁日の旧暦10月20日が24日(水)ですが、

その日は定休日となる為に、22日㊊)午後~23日(火・祝)の両日を「三春昭進堂の恵比寿講祭」とさせていただきます。


三春昭進堂では、恵比須様への商売繁盛 祈願、そして、お客様への感謝の記として「えびす講祭」にご来店のお客様には、日ごろの感謝を込めて「一口すあま」をプレゼントいたします。


両日とも、末広がりの八十八名様分を予定しています。









三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:07 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |