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白石舘 大越村 田村四十八舘



白石舘 大越村 田村四十八舘



三春田村氏の重臣大越城主大越紀伊守の臣、白石蔵人の居住

現大越町大字上大越字町中の中央にありました。

平地の建てられており濠をめぐらした跡が今でも見られます。





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍




| ryuichi | 04:26 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村四十八舘1 |
西牧館跡  田村四十八舘



西牧館跡  田村四十八舘

旧飯豊村大字小野山神字八升蒔きに在り

舘主は、田村氏の臣 西牧文九郎が居住

戦国時代末の天正十四年、三春城主田村清顕と会津城主芦名氏との安子ヶ島に於いて合戦の時に西牧氏戦死。


安子ヶ島地内にそのお墓があると伝わっています。




田村郡郷土史参照



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:24 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村四十八舘2 |
村社 稲荷神社御由緒調査書 青石   



明治三十六年六月 社掌 岩崎嘉門 内務省神社局御中  

村社 稲荷神社御由緒調査書   青石

磐城国田村郡澤石村青石石坂鎮座

村社 稲荷神社
祭神 宇賀魂之命

古老傳説
當社は、天正八年中 陸奥国青石の舘主佐久間伊勢の信仰により、山城国伏見大神の御分霊を迂し奉りて村の鎮守と勧請しました。

明治維新に際して村社の列せられました。

社掌 岩崎嘉門
氏子惣代 佐久間左十
氏子惣代 佐久間利源氏治


三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 04:45 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧沢石村::青石 |
七郷 鎌場舘跡 田村四十八舘




七郷 鎌場舘跡 田村四十八舘

七郷村大字堀越に在りました。

佐藤左近が居住と記されています。


堀越八幡神社、及び花園神社は佐藤氏の勧請したと伝わています。


田村家の家臣達は、田村庄及び小野保(現在の小野町)に、後に云う田村四十八舘を築き、それぞれ本拠として防備の為に領していたが、三春城下にも屋敷を与えられ、三春城の一郭を成し非常時に備えていました。

月斎以下重臣屋敷が城近くに配置され三春城の防御の要を成し、常に田村家に近侍する直属の旗本不断衆千騎の屋敷も城近くに集中していました。





三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



| ryuichi | 04:27 | comments (x) | trackback (x) | 🌸田村四十八舘2 |
 「西方霧舘」三春千葉氏 鎌倉殿の13人



    

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 三春千葉氏

昨夜は、源頼朝による平家追討戦に於いてターニングポイントとなった佐藤浩市さん演じる上総介廣常、そして、岡本信人さん演じる下総国の千葉一族の中興の祖と言われる千葉常胤(ちば・つねたね)も重要な役割で出演していました。

千葉氏も上総氏も共に平将門に縁のある平氏一門です。

千葉氏といえば三春千葉氏の祖でもあります。


千葉氏は、鎌倉時代、南北朝時代を経て室町幕府後期まで繰り広げられた坂東武者を巻き込んだ長い戦乱の世にあって戦国期に下総から撤退して全国に離散しますが、その一家が三春に住み着き、田村氏の配下となったと考えられています。

古の昔「西方の霧舘」と称された舘がありました。

 戦国時代の天正年間、三春城主田村氏の構築した防御要の出城、いわゆる「田村四十八舘」の一舘で、その重臣千葉紀伊守(桓武平氏、後の坂東八平氏・関東八屋形の一つ下総千葉氏の末裔)が城主を務めた「西方舘」です。

 西方霧舘の在る西方村は、三春城下の南部に位置し、大滝根川沿いの山麓にある西方霧舘址は、今でも寒暖の差が生じる時節には霧が立ち込め、「霧の舘」の幻想的な姿を彷彿とさせてくれます。

"中妻文化財を守る会"の案内板によれば、「東に大滝根川南西は急崖の要害の地で山裾にある"行井戸"より立昇る霧がこの城にたなびいて神霊を崇めて霧舘と称し、峯続きにある千葉氏の氏神である北辰妙見宮(尊攘王)が、この舘(城)の守護神であるという」と記されています。

現在の千葉市にある妙見本宮千葉神社の御分霊とされています。

千葉神社は、「通称・千葉の妙見様」と呼ばれ千葉氏の守護神、北辰妙見尊星王を主祭神として長保2年(1000年)に北斗山金剛授寺として中興開山されました。

千葉氏の祖・平良文が守護神として御尊体を迎え、嫡孫の平忠常に至り現在地に勧請されました。

 

西方村内にある「西方不動堂」は「おてはんにゃ様」と呼ばれ、旧歴三月十五日の祭礼には「般若経」六百巻が転読され、参拝の村人の額には墨の角印を押してもらい無病息災を祈願します。



さらに、「乳付け観音」と呼ばれる馬頭観音堂も鎮座しています。この観音様は「馬産安全」「子孫繁栄」に霊験あらたかで、田村地方では小野の東堂山と並んで信仰され、かつての祭礼は旧三月十七日で、西方の各戸では、団子を持参して参拝者に「団子撒き」をしていました。
 
その祭礼は大変賑わっていたと伝えられ、御手洗の水に笹を浸して神前に供えておき、参拝者にこの笹と、小さな板に馬の走る焼き印を押して配ります。

これは、馬が丈夫に育つようにと、たてがみに結んでいたとされています。

また、仔馬が乳を飲みつけないときに参詣すると乳を飲むようになると伝わっています。
 
尚、堂の内外には江戸期三春の馬画名匠と云われた徳山研山の書かれた大絵馬をはじめ四十六面の親子絵馬が奉納されています。



 毎年元旦に同地区で開催される、「西方水かけまつり」
古老の説明によれば、西方城主千葉紀伊守が、配下の与力や領民の士気を鼓舞するために始めた祭事といわれています。
 
この祭りは、大滝根川に沿った三春町西方地区の塩釜神社で、子孫繁栄と五穀豊穣祈願のため、三百年余りの伝統を持つ小正月の行事で、以前は小正月の十五日に行われていましたが、現在は正月元旦に行われています。
 
まず、前祝いの酒宴がもたれ、頃合いを見て全員がまわし一つの裸となり、村を流れる大滝根川に入って禊ぎをします。続いて一同うち揃って塩釜神社に参拝し、一気に行井戸にかけおりると、地区内の田んぼに入り桶やバケツで泥水を掻け合います。

 この水かけの神事は、村に疫病が流行ったとき、水場(行井戸)から霧が 立ち上り、まもなく疫病が治まります。一村全滅にもなりかねなかった疫病が、霧のごとく消滅したことを村民皆で喜び「これは西方鎮守塩釜神社神霊の加護に相違ない」と、村民が「水祝いの行事」で水垢離(みずごり)をとって御礼参りをしたことに始まったと言われています。

 

| ryuichi | 04:47 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧中妻村::西方 |
三春物語493番「西方霧舘守護神北辰妙見尊星王宮」





西方霧舘 北辰妙見尊星王宮

三春城下の南、旧西方村にある西方舘。

三春ダム展望台付近になりますが、三春城主戦国田村氏時代の防御要塞田村四十八舘の一つ西方舘千葉紀伊守の居城がありました。

千葉氏一党とその舘の守護神として峰続きの高台に鎮座しています。




祭日を、旧二月十八日にとして、作神様といって参拝しています。

現在の千葉市にある妙見本宮千葉神社の御分霊とされています。

千葉神社は、「通称・千葉の妙見様」と呼ばれ千葉氏の守護神、北辰妙見尊星王を主祭神として長保2年(1000年)に北斗山金剛授寺として中興開山されました。

千葉氏の祖・平良文が守護神として御尊体を迎え、嫡孫の平忠常に至り現在地に勧請されました。

千葉県の字にもなっている千葉氏でありますが、妙見信仰が関東地方に伝わったのは、天智天皇の666年から霊亀(716年)に近畿・駿河・甲斐・相模などに住んでいた帰化人を、関東地方に移住させたことで、文化の1つとして伝わったようであります。
 
千葉氏は、鎌倉時代、南北朝時代を経て室町幕府後期まで繰り広げられた坂東武者を巻き込んだ長い戦乱の世にあって戦国期に下総から撤退して全国に離散しますが、その一家が三春に住み着き、田村氏の配下となったと考えられています。

| ryuichi | 18:48 | comments (x) | trackback (0) | 🌸旧中妻村::西方 |
田村四十八舘  澤石村(三春町沢石)五舘跡




田村四十八舘 

澤石村(三春町沢石)五舘跡



正楽舘 

舘主 渡邊雲龍斎




御舘

舘主 橋本玄蕃




長根舘 


舘主 佐久間伊勢守 後、青石舘に居住





臺(むろ)舘

舘主 佐久間豊後




新舘

舘主 某氏若狭








春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍



| ryuichi | 04:18 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧沢石村 |