2024-02-29 Thu
「安東愛季・實季父子の畿内足跡と高野山秋田家墓所」 三春町 髙橋龍一三春秋田氏 安倍(生駒)・安東氏
三春秋田氏は、平安期の武将安倍貞任の祖とする東日流(津軽)荘司、安倍・安東氏の末裔で、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)を本拠として津軽地方や蝦夷を領有し、強大な戦力を持つ海運貿易船団・水軍「安藤水軍」を率いて国内外で活躍していた「日之本将軍」「蝦夷探題」を継承する海将の一門でした。
安東愛季は、三春藩初代藩主秋田俊季の祖父、そして、實季は父になります。實季公が「従五位下秋田城介」という官位を拝受して以降は秋田姓となっています。とは言っても、後ほど言及しますが、宍戸への減俸による移転の際にはそれを不服として生駒姓を使っていたこともありました。
※ 安東・秋田家「檜扇(ひおうぎ)に違い鷲羽」紋。
この紋は、鎌倉時代の安東家当主・貞秀が後鳥羽上皇に召された際、朝鮮から送られた鷲の羽2枚を檜扇に載せて拝領したことに因んだものです。
三春初代秋田俊季の祖父安東愛季
安東愛季は、長年に亘って二分して争ってきた下国家桧山安東(高乾院系)と湊安東家(龍穏院系)を統一して、一流の戦国大名に格上げした立役者です。娘婿である北畠浪岡家の権威と財力と行動力を駆使して「言継卿記」を現した公家山科言継などを活用して織田信長や豊臣秀吉との親交を深めます。
また、禁裏・朝廷工作を進めて、愛季自身の官位「従五位下」「侍従」拝受や安東一門への官位授与、そして、實季への細川管領家との婚姻などを進めていきました。さらには戦乱で荒れた京都市中の復興整備にも積極的に関与していきました。
蓮華王院本堂「三十三間堂」周辺改修した際に、堀にかかる石造の架け橋や護岸石積みを施工し、その石橋造作の技術力の高さを朝廷から讃えられます。その時の担当官に愛季(實季か?)より“石橋”の氏を賜ったと城下尼ヶ谷の石橋家に伝わっています。
「NHKブラタモリ」の京都編で、歴史的な仔細は伝わっていませんが、三十三間堂付近の下に埋設されている堀に架かる立派な石橋・護岸石垣の存在が紹介されていました。
「奥羽仕置」石田三成と安東實季(俊季の実父)
天正19年(1591)、秀吉の「奥羽仕置」では、「惣無事令」違反を口実に安東に臣下の礼を求めて威嚇する動きがありましたが、實季を御屋形とする安東一門、そして、家臣一族郎党の力を結集してその危機を乗り切ります。實季の姉北畠・浪岡顕村夫人と婿養子慶好らの禁裏・公家工作、また、家臣の湊右近(北畠季慶)・湊宮内大輔(南部季賢)らを上洛させて必死の政治工作を展開します。
特に、奉行衆筆頭の石田三成には特別な計らいを受けて、領地安堵を伝える「秀吉朱印状」を得ています。
この時の石田三成への恩と御縁もあって、三成の御落胤とされる三春藩士交野(かたの)五郎佐衛門十兵衛は、関ヶ原合戦の際に三成敗走直前に實季に預けられ、實季の朝熊蟄居の際に近習となって生涯付き添ったと交野家には伝わっています。
「関ヶ原戦」後は、徳川家康より上杉、佐竹に与したとの嫌疑をかけられてしまい、水軍を取り上げられ、出羽より常陸宍戸への減封を命ぜられます。
後の「大坂之陣」は、徳川勢(東軍)として参戦していますが、戦後の恩賞や十三湊へ帰還、そして、安東水軍復活などへの未練が幾重にも募り、剛毅な實季は官位返却の姿勢を示して生駒姓を名乗ったりして、それらの不満を幕閣にぶちまけて居たのでしょう。後に幕府からの沙汰があり、宍戸5万石を嫡男俊季(後に三春へ転封)に譲渡され、實季はわずかな近習を引き連れて伊勢神宮神田近く朝熊(あさま)にある石城山永松寺草庵へ蟄居を命じられます。
以後、約30年に亘って蟄居生活を送り、享年85という長寿にて逝去して山内に埋葬され現在も墓所が残っています。
蟄居されたとはいえ、實季は優れた教養人で、伊勢名物「秋田萬金丹」という薬を造ったり、「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し、優れた和歌や文筆を残しています。
若狭羽賀寺 安倍康季、実季木造座像
奈良時代創建の若狭小浜鳳聚山羽賀寺の本堂内に、安東實季、そして、その8代前の先祖で羽賀寺を再興した康季(官位衣装から實季の父愛季か?)の木造座像が安置されています。
羽賀寺は長い歴史の中で天災や戦禍などで幾度か罹災していますが、室町初頭に伽藍が焼失すると、時の天皇後花園天皇は、安東盛季、康季父子に再建を勅願します。
この頃の安東氏は、宿敵南部氏との交戦中であり、十三湊が大津波により罹災し再建半ばで財政的には苦しかったと考えられますが、康季は安東一門の総力を挙げて再建に取り組み11年の歳月をかけて落慶します。
さらには、康季から150年を経た戦国末期に、8代後の實季にも再度先祖の縁でということで、青蓮院門跡尊朝法親王より勅願があり、再度安東一門の威信にかけて再建を成し遂げます。
若狭小浜港は、古より安東水軍の北前船貿易船が海外貿易の拠点、そして、洛尚・畿内への交易母港としており、羽賀寺との関係も深かったと考えています。
高野山奥之院三春秋田家墓所
奥之院の秋田家墓所には、三春初代俊季から4代頼季、そして、俊季後室永壽院の大型の五輪塔5基ほか多数の石塔が並んでいます。
他に3代輝季の嫡子秋田伊豆守就季(廣季)の五輪塔もあります。就季は、三春藩家督争い「正徳事件」渦中の人として家督しないまま父に先だって亡くなっています。さらに、頼季公の三男で8歳という幼さで亡くなった安五郎・後の秋田民部の供養塔も確認できます。
尚、5代延季(治季)以降は高野山への埋葬はありません。
蒼龍謹白 拝
付記
「高野山金光院 三春家中過去帳 享保十七年始」 全61折
「三春家中過去帳 自永正十六年 至享保十七年」
「南無大師遍照金剛 高野山 金光院」
永室妙久大姉
永壽院殿御局伊井殿為自身逆修
御石塔奥院有之 萬治三年十一月八日
越山了公禪定門
施主秋田豊嶋武藏殿立之 永正十六年八月三日
乗重禪定門
施主秋田豊嶋惣右衛門殿為逆修立之 永正十六年己卯七月廿六日
妙光禪定尼
施主同人 右同時立之
乗泰禪定門
施主秋田豊嶋惣右衛門立之 永正十六年七月廿六日
浄雲禪定門
施主秋田大平坂口次平殿立之 永正十六年七月廿六日
善祐禪定門
施主秋田豊嶋孫右衛門殿立之 永正十六年七月廿六日
>
藤参禪定門
施主秋田豊嶋次郎左衛門殿 大永二年八月
華月浄春居士
施主秋田湊藏人殿立之 大永五年九月十八日
月窓妙光大姉
施主秋田御屋形様内村松源之焏殿 大永六年六月十七日
妙高
施主秋田豊嶋次郎左衛門立之 享禄二年六月十日
本高
施主同人 右同時立之
妙西禪定尼
施主秋田豊嶋孫右衛門殿立之 大永五年七月
>
道永神居
施主秋田豊嶋次郎左衛門立之 享禄二年六月十日
道順禪定門
施主秋田大平兵右衛門立之 天文三年六月十四日
那智阿弥陁佛
施主秋田豊嶋 天文四年八月十日
舊山妙香定尼
施主秋田御屋形様内湊左京進殿 天文十九年二月十五日
妙光大姉
施主秋田御城内古屋左衛門尉殿立之 天文三年七月廿一日
志父尊霊
施主秋田御屋形様内大平左京進殿 天文廿二年四月廿一日
高範禪定尼
施主秋田御屋形様内湊伊豫守殿 天文八年八月四日
高山春公沙弥
施主秋田御屋形様内石塚衛門四郎殿 天文廿三年四月廿一日
妙金禪定尼
施主秋田御屋形様内鎌田河内守殿 天正廿年二月八日
日 春月宗陽禪定門
施主秋田御屋形様内湊五郎殿立之 天正十一年六月廿四日
日 南臺香林童女
施主秋田御屋形様内大平殿 但為御息女也 天正十六年十一月十九日
即法禪定門
施主秋田御屋形様内 取次内膳殿 天正廿年正月十二日
花心禪定尼
施主秋田御屋形様内桓崎衛門殿立之 天正十七年三月十四日
道光禪定門
施主秋田御屋形様内鎌田河内守殿立之 天正廿年二月八日
日 高月禪定門
施主秋田御屋形様内田口彦助殿 但為弥四郎追福立之 天正廿年二月八日
龍然禪定門
施主秋田御屋形様内伏部沢二位殿為父 文禄三年七月廿二日
鉄舩庵殿大虚洪廓庵主
秋田奉為為御屋形様尭季公御菩提也
施主石塚衛門四郎立之 天文廿三年七月廿八日
九月十三日忌
鉄舩庵殿大虚洪廓庵主
秋田奉為御屋形様𠒖季公御菩提也
施主湊尾張守立之 天文廿三年七月廿八日
九月十三日忌
鉄舩庵殿大虚洪廓庵主
秋田奉為為御屋形様𠒖季公御追福也
施主金光院 天文十九年二月十五日
九月十三日忌
源安徹公居士
施主秋田大平摂津守殿 永禄八年十一月 日
天正十六年九月朔日忌
龍穏院殿萬郷生鉄大居士
秋田奉為為御屋形様愛季御菩提也 施主桓崎衛門尉 天正十七年三月十四日
天正十六年九月朔日忌
龍穏院殿萬郷生鉄大居士
秋田奉為為御屋形様愛季公御菩提也 天正十八年七月一日 城之助殿御父
湖光妙正大姉
秋田二郎殿御祖母為御逆修也 施主大平岩見守 天正十八年七月七日
香林月照大禪定尼
施主秋田大平岩見守殿 天正十八年七月七日
高月
逆修 施主秋田御屋形様内垣崎衛門殿 天正十七年三月十四日
華窓心公大禪定門
奥州深浦物主木場袋右衛門頭吉季為御菩提也
御施主安東藤太郎様御老母 文禄二年二月十六日 三十三回忌
高月大禪定尼
施主秋田御屋形様内御湊専十郎殿 為老母立之
文禄五年四月二日
壽山妙宗禪定尼
施主秋田御屋形様内御千代様立之
文禄五年四月二日>
熒月榮公沙弥
施主秋田御屋形様内傳右衛門殿立之
慶長二年八月十一日
巨海大姉
逆修 施主同人 為老母立之
慶長二年八月十一日
松月頂上大禪定尼
施主秋田御屋形様内 相模守殿 取次兵右衛門殿
慶長二年八月十一日
塒清春公大姉
施主同人
右同時立之
晏叟宗清大居士
施主同前
右同時立之
心月秋芳大禪定尼 施主同前
右同時立之
日 光含宗圓大禪定門 施同前
右同時立之
雲林宗月大禪定門
施主秋田御屋形様内勝三郎 但為半兵衛菩提也
慶長五年九月廿四日
榮山宗觀禪定門
施主秋田御屋形様内新山将監 但為内方立之
慶長七年五月十八日>
高林常秀禪定門
施主秋田御屋形様内御虎様 但為舎弟立之
御使者中村織部
慶長十二年閏四月十三日
月暉 逆修
施主秋田御屋形様局立之 取次紅梅殿
慶長十三年八月朔日
珎齡永松禪定尼
施主秋田御菊様 但御局為菩提立之
御使者中村織部
慶長九年正月十四日
池盛妙蓮禪定尼
施主秋田御菊様 但為御老母立之
御使者中村織部
慶長十二年壬四月十三日
秋月妙圓禪定尼
施主秋田御菊様 但為伯母立之
御使者中村織部
慶長十二年潤月十三日
日牌 春嶺晴雲禪定尼
施主常州宍戸城主秋田城介様内湊道久息女御宿様
但姉中殿為菩提也 取次三光院(金光院)久尊
寛永元年二月廿一日忌
慶長十三年十一月四日 十七回忌
梅節妙紅禪定尼
施主常州宍戸城主秋田城介様内秋田仁左衛門子息
七兵衛殿 為悲母也 取次久尊
寛永元年八月廿三日
元和九年八月四日忌
日牌 瑞祥院殿東明清関大姉
常州宍戸城主秋田城介實季公御袋為御菩提
施主秋田将監殿
元和九年十一月朔日
日牌 瑞祥院殿東明清関大姉
常州宍戸城主秋田城介實季公御袋為御菩提
施主金光院祐實
元和九年十一月朔日
玉窓妙金禪定尼
施主常州宍戸城主秋田城介様内岡道與内方
但為悲母也
元和六年庚申二月廿五日
心庵宗徳沙弥
施主常州宍戸城主秋田城介様内三光院久尊
為父立之
寛永二乙夘年七月廿六日>
(後略)
三春城下真照寺参道 御菓子 三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 19:19 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主 安東秋田氏 |
2024-02-29 Thu
三春舞鶴会通信 第23号 寄稿
「安東愛季・實季父子の畿内足跡と高野山秋田家墓所」 三春町 髙橋龍一
三春秋田氏 安倍(生駒)・安東氏
三春秋田氏は、平安期の武将安倍貞任の祖とする東日流(津軽)荘司、安倍・安東氏の末裔で、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)を本拠として津軽地方や蝦夷を領有し、強大な戦力を持つ海運貿易船団・水軍「安藤水軍」を率いて国内外で活躍していた「日之本将軍」「蝦夷探題」を継承する海将の一門でした。
安東愛季は、三春藩初代藩主秋田俊季の祖父、そして、實季は父になります。實季公が「従五位下秋田城介」という官位を拝受して以降は秋田姓となっています。とは言っても、後ほど言及しますが、宍戸への減俸による移転の際にはそれを不服として生駒姓を使っていたこともありました。
三春初代秋田俊季の祖父安東愛季
安東愛季は、長年に亘って二分して争ってきた下国家桧山安東(高乾院系)と湊安東家(龍穏院系)を統一して、一流の戦国大名に格上げした立役者です。娘婿である北畠浪岡家の権威と財力と行動力を駆使して「言継卿記」を現した公家山科言継などを活用して織田信長や豊臣秀吉との親交を深めます。
また、禁裏・朝廷工作を進めて、愛季自身の官位「従五位下」「侍従」拝受や安東一門への官位授与、そして、實季への細川管領家との婚姻などを進めていきました。さらには戦乱で荒れた京都市中の復興整備にも積極的に関与していきました。
蓮華王院本堂「三十三間堂」周辺改修した際に、堀にかかる石造の架け橋や護岸石積みを施工し、その石橋造作の技術力の高さを朝廷から讃えられます。その時の担当官に愛季(實季か?)より“石橋”の氏を賜ったと城下尼ヶ谷の石橋家に伝わっています。
「NHKブラタモリ」の京都編で、歴史的な仔細は伝わっていませんが、三十三間堂付近の下に埋設されている堀に架かる立派な石橋・護岸石垣の存在が紹介されていました。
「奥羽仕置」石田三成と安東實季(俊季の実父)
天正19年(1591)、秀吉の「奥羽仕置」では、「惣無事令」違反を口実に安東に臣下の礼を求めて威嚇する動きがありましたが、實季を御屋形とする安東一門、そして、家臣一族郎党の力を結集してその危機を乗り切ります。實季の姉北畠・浪岡顕村夫人と婿養子慶好らの禁裏・公家工作、また、家臣の湊右近(北畠季慶)・湊宮内大輔(南部季賢)らを上洛させて必死の政治工作を展開します。
特に、奉行衆筆頭の石田三成には特別な計らいを受けて、領地安堵を伝える「秀吉朱印状」を得ています。
この時の石田三成への恩と御縁もあって、三成の御落胤とされる三春藩士交野(かたの)五郎佐衛門十兵衛は、関ヶ原合戦の際に三成敗走直前に實季に預けられ、實季の朝熊蟄居の際に近習となって生涯付き添ったと交野家には伝わっています。
「関ヶ原戦」後は、徳川家康より上杉、佐竹に与したとの嫌疑をかけられてしまい、水軍を取り上げられ、出羽より常陸宍戸への減封を命ぜられます。
後の「大坂之陣」は、徳川勢(東軍)として参戦していますが、戦後の恩賞や十三湊へ帰還、そして、安東水軍復活などへの未練が幾重にも募り、剛毅な實季は官位返却の姿勢を示して生駒姓を名乗ったりして、それらの不満を幕閣にぶちまけて居たのでしょう。後に幕府からの沙汰があり、宍戸5万石を嫡男俊季(後に三春へ転封)に譲渡され、實季はわずかな近習を引き連れて伊勢神宮神田近く朝熊(あさま)にある石城山永松寺草庵へ蟄居を命じられます。
以後、約30年に亘って蟄居生活を送り、享年85という長寿にて逝去して山内に埋葬され現在も墓所が残っています。
蟄居されたとはいえ、實季は優れた教養人で、伊勢名物「秋田萬金丹」という薬を造ったり、「凍蚓(とういん)」“凍えるミミズ”という自嘲めいた雅号を号し、優れた和歌や文筆を残しています。
若狭羽賀寺 安倍康季、実季木造座像
奈良時代創建の若狭小浜鳳聚山羽賀寺の本堂内に、安東實季、そして、その8代前の先祖で羽賀寺を再興した康季(官位衣装から實季の父愛季か?)の木造座像が安置されています。
羽賀寺は長い歴史の中で天災や戦禍などで幾度か罹災していますが、室町初頭に伽藍が焼失すると、時の天皇後花園天皇は、安東盛季、康季父子に再建を勅願します。
この頃の安東氏は、宿敵南部氏との交戦中であり、十三湊が大津波により罹災し再建半ばで財政的には苦しかったと考えられますが、康季は安東一門の総力を挙げて再建に取り組み11年の歳月をかけて落慶します。
さらには、康季から150年を経た戦国末期に、8代後の實季にも再度先祖の縁でということで、青蓮院門跡尊朝法親王より勅願があり、再度安東一門の威信にかけて再建を成し遂げます。
若狭小浜港は、古より安東水軍の北前船貿易船が海外貿易の拠点、そして、洛尚・畿内への交易母港としており、羽賀寺との関係も深かったと考えています。
高野山奥之院三春秋田家墓所
奥之院の秋田家墓所には、三春初代俊季から4代頼季、そして、俊季後室永壽院の大型の五輪塔5基ほか多数の石塔が並んでいます。
他に3代輝季の嫡子秋田伊豆守就季(廣季)の五輪塔もあります。就季は、三春藩家督争い「正徳事件」渦中の人として家督しないまま父に先だって亡くなっています。さらに、頼季公の三男で8歳という幼さで亡くなった安五郎・後の秋田民部の供養塔も確認できます。
尚、5代延季(治季)以降は高野山への埋葬はありません。
蒼龍謹白 拝
三春城下真照寺参道 御菓子 三春昭進堂 菓匠蒼龍
2024-02-28 Wed
KFB福島放送 ふるさとシェア 三春 2月27日(火)放送分
三春城下に“春の訪れ”を告げるイベント 三春藩主祈願寺「真照寺節分会豆まき」
春の足音が聞こえる三春町です。
滝桜を筆頭に、城下町の各所に見ごたえのある枝垂桜たちが咲き誇る”城下町三春“ 皆様方のお越しをお待ちしています。
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三春藩主秋田家祈願所 真照寺節分会 2024
一昨夜、三春城下の旧三春藩主祈願所日乗山東門院真照寺の節分会が盛大に開催されました。
朝から、檀家や近所のお手伝いの方々や、ご祈祷を受ける方々や福授け豆まきの景品を奉納する方々、そして古いお札や正月飾りのお焚き上げの方々だ度がなどが、行き交う参道です。
山内には、多くの方々が福を拾いに詰めかけました。
早めの夕食を済ませた方々が、三々五々境内に参集してきます。
豆まき開始は午後八時ごろから、二回に分けて行います。
豆まきには、例年通りの大勢の方々が来場し、住職や年男、そして役員の方々が撒く「福豆」を拾っていました。
さらには、豪華景品は、魚券、酒、ゲーム、毛布、プラモデル等々、今年初めの運試しです。
火気警備の消防団員や三春分署員さんもその賑わいの演出者となっています。
皆さん、お焚き上げの炎で体を温め無病息災を祈願しながら、豆まきの時を待ちます。
裃姿の福男がお焚き上げの炎にあたり、邪気を払い豆まきの準備万端!
本堂内で、ご祈祷です。
所願成就の祈願を申し込んだ参詣者や、豆まきをする方々が、”護摩焚き”によるご祈祷を受けています。
今年は、真照寺ご住職のご配慮で、孫みたいな悠大くんも裃姿での豆まきとなりました。
ご住職さま、御心使い本当にありがとうございます。
福は内! 福は内! 福は内! 福は内! 福は内!
真照寺では、鬼は外とは言いません。
何故かって?
御本尊の不動明王さんは、改心すれば鬼をも助けるということです。
心の中にいる鬼も改心すれば・・・「罪を憎んで、人を憎まず!」です。
人間、誰にだって心の中に「鬼」を持ってます。
日常生活の中で、カッ!となる「心」を鬼と呼ぶんでしょう。
「福」というのは自分の長所であり、「鬼」というのは自分の短所つまり欠点のことだと云われています。
人は、それぞれ長所・短所を持ち合わせているものです。
節分の豆まきは、「春」立春を迎える「節分」にあたり、豆を撒いて1年に1度、短所を追い払い、長所を伸ばそうという行事なんだろうと思います。
心の中の鬼を調整するのも自分の心次第、そういう心を戒めて、心穏やかに暮らしていけるよう日々生活していきたいものです。
そして・・・いよいよ豆まき、特等空気清浄機、お酒、魚、醤油や油、任天堂3dDS,ソニーPSP等のゲーム等の豪華賞品を目指します。
今年も沢山の方々が来場していただきました。
”笑顔” ”笑顔” ”笑顔” ”笑顔” 笑顔が境内にあふれます。
また、祈願成就のお札を申し込まれた方々には”福銭”が下されます。
この福銭を一年間財布やレジに入れておくとお金がたまるといわれています。
そして、一年後に本堂のさい銭箱にお礼の気持ちを込めてお返しください。
改めまして、真照寺御本尊不動明王様、そしてご住職、お寺のご家族、天狗谷、磐梯造園、檀信徒役員等々、そして節分へご来場の皆様等々、有縁無縁全ての皆々様には、心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。
春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 04:34 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主秋田家祈願所 真照寺::節分会・初寅会 |
2024-02-27 Tue
KFB福島放送 ふるさとシェア 三春 2月27日(火) 午後3時48分~放送分
三春城下に“春の訪れ”を告げるイベント 三春藩主祈願寺「真照寺節分会豆まき」
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 07:01 | comments (x) | trackback (x) | 🌸菓匠蒼龍 心洗洞刹記::KFB「シェア!」 三春 |
2024-02-26 Mon
三春昭進堂 2月の連休のお知らせ
2月26日(月) 、2月27日(火)は、定休日と合わせて連休となります。
連休させていただきます。
よろしくお願いいたします。
KFB福島放送 ふるさとシェア 三春 2月27日(火) 午後3時48分~放送分
三春城下に“春の訪れ”を告げるイベント 三春藩主祈願寺「真照寺節分会豆まき」
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 04:23 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
2024-02-25 Sun
「ふくしまの酒・味噌醤油まつり」 2024 in ビックパレットふくしま
醸造王国ふくしま
「ふくしまの酒・味噌醤油まつり」が4年ぶりに、2024年3月2日(土)~3日(日)まで、郡山市のビッグパレットふくしまで開催されます。
このイベントでは、福島県産の日本酒やおつまみ、味噌、醤油などが一堂に会し、醸造文化の魅力が広く発信されます。
福島県菓子工業組合 ”たけなプポロジェクト” 三春昭進堂「地酒 三春駒どら焼き」も販売しています!
~~日本酒コーナーで使える数量限定の前売券発売中~~
〖前売券〗6枚綴り 1,.000円(税込) ※当日券は5枚綴り
お酒の種類で異なりますがチケット1枚または2枚で1杯(約60ml)と交換できます
※日本酒コーナー以外では使えませんので、ご注意ください※
日時:令和6年3月2日(土)11:00~18:00 / 3月3日(日)10:00~17:00
会場:ビッグパレットふくしま
入場は無料です
お酒、味噌醤油と美味しいグルメ、スイーツもあります
ご家族みなさまで遊びにきてくださいね
前売券販売所、イベント詳細は順次掲載いたしますので、
下記「ふくしまの酒」サイトをご確認ください
ふくしまの酒 – (fukunosake.com)
【日本酒コーナーで利用できる前売券販売箇所】
福島県酒造協同組合 平日のみ 9:00~17:30
福島県観光物産館 9:30~19:00
日本橋ふくしま館 – MIDETTE(ミデッテ) 10:30~19:00
————————————————————————–
お酒は二十歳になってから 飲酒運転は絶対にやめましょう
郡山駅⇔ビッグパレットふくしま
路線バス増便で運行します
| ryuichi | 05:27 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
2024-02-24 Sat
新日本プロレス
「NEW JAPAN CUP 2024 郡山大会」
2024年3月18日(月) 17:30開場 18:30開始
郡山・ビッグパレットふくしま
ポスターを若干ですが店頭で配布しています。
先着順です。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 04:10 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
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