2024-03-31 Sun
三春在住の写真家、松下修さんの写真集「三春の三猿(庚申塔)」です。
松下さんが持参していただきました。
三春在郷にあるお寺に祀られた「庚申塔」
「庚申講」は、庚申信仰の信者たちがあつまってつくる講です。
庚申信仰は、60日に一度めぐってくる庚申(かのえさる)の日に、その夜はねむらずに言行を慎しみ、健康長寿を祈念する信仰講で「庚申待(こうしんまち)」、「守庚申(しゅこうしん)」呼ばれています。
この信仰のもとは、志那の老子の教えにもとづく道教によるもので、庚申の日になると、人の体内にいる三尸(さんし)の蟲(霊物)が、庚申の夜に天にのぼって、その人の罪を天帝に告げるために、寿命をちぢめられると言い伝えられてきました。
庚申の日に寝ないで日をまたげば体内から抜け出すことが出来ないということから日付が変わるまで健康長寿を祈念したと言う訳です。
庚申塔には、すべての悪いものを追い払う力がある青面金剛(しょうめんこんごう)や、その神使いであり謹慎態度をしめす 三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)と二羽の鶏(にわとり)、上方には日待(ひま)ち、月待(つきま)ちを表す日月(じつげつ)が浮きぼりされているのが刻印されています。
店内に配してありますので、ご覧ください。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍
2024-03-30 Sat
「連れてって~♪ 連れてって~♪ 連れてって~♪・・・」
孫みたいな悠大くんと「みんなのパラダイス」スパリゾート・ハワイアンズ 2024春休み!
悠大くんの誕生日プレゼントを兼ねた、春休み爺バカ珍道中です。
ハワイアンズホテルへ一泊二日の男二人旅です。
孫の遊んでもらいました~
友達を作るのはうまい悠大です
プールで友達になった千葉から来たという中学三年生のお兄さんたちとウォータースライダー!
大満足の悠大です。
ホテルハワイアンズでの夕食バイキング
テーブルのうえには、三春酒造の純米酒滝桜のパンフレット!
この営業力には脱帽です。
売店には、四家酒造の「地酒・又兵衛」
食事の後はハワイアンショー!
楽しくフラダンス見物です♪
私もハワイアンズを満喫です。
私も子供の頃に・・・約50年前です。
初ハワイアンセンター以来、来ていますが、子供や孫と一緒に臨場するのが楽しさが何十倍に膨れます
丸二日遊びっぱなしです。
筋肉痛が・・・
翌日も、朝9時30分のオーップンから!
新しい友達が出来て・・・ お爺ちゃんは温泉で一休み
遊んでくれてありがとうね、悠大!
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:10 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録 |
2024-03-29 Fri
三春昭進堂の三春花見団子 2024
春、桜を愛でに三春へ
桜で彩られた小さな城下町三春
滝桜を筆頭に枝垂れ桜が咲き誇り
山桜や染井吉野が彩りを添えます
三春が古より、春陽の郷と呼ばれる由縁です
三春昭進堂の花見だんごで、春爛漫のひとときをお楽しみください
その土地のさくらが開花する頃は、ちょうどその土地にあった農作業が始まる頃です。
特に北国の人々にとっては“お花見”に行き、桜の木の下で集落の皆々と飲食を共にすることは、その行為そのものが神事となり、他の神様を感謝と敬意の念をもって敬ってきたと伝えられています。
当店の和菓子は、全て手作りのため、曜日・時間帯によってはご用意できない和菓子や売り切れになる和菓子もございます。
なにとぞ、ご容赦くださいますようお願い申し上げます。
燃料及び各種原材料の高騰の為に、内容量とパッケージの変更を取り入れました。
価格は昨年より値下げしていますが、内容量が30%ほど少なくなっています。
コロナ感染症対策のために、大小問わず一人前として小口のパッケージを採用しています。
ご理解のほどよろしくお願いいたします。
また、小パックには三春花見だんごの懸け紙は付きません。
皆様のご予約をお待ちしています。
尚、最小限のスタッフにて営んでおり関係で、花見だんごから端午の節句までの繁忙期は早朝からの仕込みや製造工程の関係で、営業時間が変更となります。
開店を 午前9時予定 (当日の注文製造工程により変更有)
閉店は 午後6時予定 予約の状況に依ります。
春陽郷三春城下 三春昭進堂 菓匠蒼龍
| ryuichi | 04:33 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯::季節のお菓子 |
2024-03-28 Thu
塵壺393号 令和6年4月発行
安倍・安東愛季(ちかすえ) 北天の斗星(渾名)
安東愛季は、後の三春五万石秋田氏初代藩主となる秋田俊季の祖父で、「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と評された戦国武将です。
津軽地方の下国檜山家・安東氏の御屋形(当主)安東舜季(きよすえ)の嫡男として生まれました。
母はもう一方の安東氏、上国湊家安東氏出身の嶺松院です。
安東愛季が御屋形となる安東氏は、平安期の武将・安倍貞任の祖とする東日流(津軽)荘司、安倍・安東氏の末裔で、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)を本拠として津軽地方や蝦夷を領有し、強大な戦力を持つ海運貿易船団・水軍「安藤水軍」を率いて国内外で活躍していた「日之本将軍」「蝦夷探題」を継承する海将の一門でした。
その繁栄ぶりは国内外に広く知れ渡り、ルイス・フロイスが著した永禄8(1565)年の書簡にも愛季の蝦夷交易のことが記されています。
愛季は、長年に亘って利権争いなどから二分して争ってきた安東一門を統一するため、婚姻関係と養子縁組など政略的な縁組を行って弟・茂季を湊・安東家に養子入りさせ、湊家安東氏を吸収する形で、桧山・安東氏と湊・安東氏を統一して一流の戦国大名として本格的な領土拡張に動きます。
そして、愛季は戦国時代となる室町幕府末期の中央との政治工作も忘れてはいません。
強大な海軍力を備えた安東水軍を率いて日本海北前船交易で収集した畿内情報をもとに、娘婿である北畠浪岡家の権威と財力と行動力を駆使し、「言継卿記」を現した公家の山科言継などを使って織田信長や豊臣秀吉との親交を深めます。
また、禁裏・朝廷工作を進めて、愛季自身の官位「従五位下」「侍従」拝受や安東一門への官位授与、そして、實季への細川管領家との婚姻などを進めていきました。
さらには、北前貿易で蓄えた安東一門の財力をもって豊臣政権下での戦乱で荒れた京都市中の復興整備にも積極的に関与していたと考えています。
その一例として、蓮華王院本堂「三十三間堂」周辺改修した際に、堀にかかる石造の架け橋や護岸石積みを施工し、その石橋造作の技術力の高さを朝廷から讃えられ、その時に殿様(愛季・實季か?)より“石橋”の氏を賜ったと城下尼ヶ谷の石橋家に伝わっています。
愛季はさらに領地拡大を目指して領国経営戦略を打ち出し、比内郡を含む出羽国北部の大部分を領地としました。
同年には、「本能寺の変」が起こり、信長が明智光秀に討たれて、天下が豊臣秀吉に移っても安東氏の立ち位置は変わりません。
これが結果として、後の安東家に大きな役割を果たします。
天正15(1587)年、愛季は仙北郡に出陣して角館城主・戸沢盛安と戦いの最中、淀川の陣中で病により世を去りました。
享年四十九。戒名は龍穏院殿萬郷生鐡大禅定門。
墓所は三春城下荒町の秋田家菩提寺秋田山龍穏院にあります。
愛季の知略は、息子である實季(俊季の実父)にも受け継がれます。
天正19年(1591)、秀吉の「奥羽仕置」では、「惣無事令」違反を口実に安東に臣下の礼を求めて威嚇する動きがありましたが、實季を御屋形とする安東一門、そして、家臣一族郎党の力を結集してその危機を乗り切ります。
實季の姉、慶松院・北畠(浪岡)顕村夫人と婿養子慶好らが公卿北畠氏の権威を利用した禁裏・公家工作を行い、さらには、家臣の湊右近(北畠季慶)・湊宮内大輔(南部季賢)らを上洛させて巧みな政治工作を展開して安東家の安堵を画策します。
特に、奉行衆筆頭の石田三成には特別な配慮を受けることに成功して無地、領地安堵を伝える「秀吉朱印状」を得ています。
尚、慶松院は、常陸宍戸(現茨城県笠間市)で亡くなりますが、法名・昌安恵繁と刻された墓石は、父愛季の墓石同様に秋田氏の三春入部に伴って移された菩提寺龍穏院の秋田家墓所に運ばれて建立されています。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
| ryuichi | 21:04 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主 安東秋田氏 |
2024-03-28 Thu
塵壺393号 令和6年4月発行
安倍・安東愛季(ちかすえ) 北天の斗星(渾名)
安東愛季は、後の三春五万石秋田氏初代藩主となる秋田俊季の祖父で、「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と評された戦国武将です。
津軽地方の下国檜山家・安東氏の御屋形(当主)安東舜季(きよすえ)の嫡男として生まれました。
母はもう一方の安東氏、上国湊家安東氏出身の嶺松院です。
安東愛季が御屋形となる安東氏は、平安期の武将・安倍貞任の祖とする東日流(津軽)荘司、安倍・安東氏の末裔で、十三湊(現・青森県五所川原市十三湖)を本拠として津軽地方や蝦夷を領有し、強大な戦力を持つ海運貿易船団・水軍「安藤水軍」を率いて国内外で活躍していた「日之本将軍」「蝦夷探題」を継承する海将の一門でした。
その繁栄ぶりは国内外に広く知れ渡り、ルイス・フロイスが著した永禄8(1565)年の書簡にも愛季の蝦夷交易のことが記されています。
愛季は、長年に亘って利権争いなどから二分して争ってきた安東一門を統一するため、婚姻関係と養子縁組など政略的な縁組を行って弟・茂季を湊・安東家に養子入りさせ、湊家安東氏を吸収する形で、桧山・安東氏と湊・安東氏を統一して一流の戦国大名として本格的な領土拡張に動きます。
そして、愛季は戦国時代となる室町幕府末期の中央との政治工作も忘れてはいません。
強大な海軍力を備えた安東水軍を率いて日本海北前船交易で収集した畿内情報をもとに、娘婿である北畠浪岡家の権威と財力と行動力を駆使し、「言継卿記」を現した公家の山科言継などを使って織田信長や豊臣秀吉との親交を深めます。
また、禁裏・朝廷工作を進めて、愛季自身の官位「従五位下」「侍従」拝受や安東一門への官位授与、そして、實季への細川管領家との婚姻などを進めていきました。
さらには、北前貿易で蓄えた安東一門の財力をもって豊臣政権下での戦乱で荒れた京都市中の復興整備にも積極的に関与していたと考えています。
その一例として、蓮華王院本堂「三十三間堂」周辺改修した際に、堀にかかる石造の架け橋や護岸石積みを施工し、その石橋造作の技術力の高さを朝廷から讃えられ、その時に殿様(愛季・實季か?)より“石橋”の氏を賜ったと城下尼ヶ谷の石橋家に伝わっています。
愛季はさらに領地拡大を目指して領国経営戦略を打ち出し、比内郡を含む出羽国北部の大部分を領地としました。
同年には、「本能寺の変」が起こり、信長が明智光秀に討たれて、天下が豊臣秀吉に移っても安東氏の立ち位置は変わりません。
これが結果として、後の安東家に大きな役割を果たします。
天正15(1587)年、愛季は仙北郡に出陣して角館城主・戸沢盛安と戦いの最中、淀川の陣中で病により世を去りました。
享年四十九。戒名は龍穏院殿萬郷生鐡大禅定門。
墓所は三春城下荒町の秋田家菩提寺秋田山龍穏院にあります。
愛季の知略は、息子である實季(俊季の実父)にも受け継がれます。
天正19年(1591)、秀吉の「奥羽仕置」では、「惣無事令」違反を口実に安東に臣下の礼を求めて威嚇する動きがありましたが、實季を御屋形とする安東一門、そして、家臣一族郎党の力を結集してその危機を乗り切ります。
實季の姉、慶松院・北畠(浪岡)顕村夫人と婿養子慶好らが公卿北畠氏の権威を利用した禁裏・公家工作を行い、さらには、家臣の湊右近(北畠季慶)・湊宮内大輔(南部季賢)らを上洛させて巧みな政治工作を展開して安東家の安堵を画策します。
特に、奉行衆筆頭の石田三成には特別な配慮を受けることに成功して領地安堵を伝える「秀吉朱印状」を得ています。
尚、慶松院は、常陸宍戸(現茨城県笠間市)で亡くなりますが、法名・昌安恵繁と刻された墓石は、父愛季の墓石同様に秋田氏の三春入部に伴って移された菩提寺龍穏院の秋田家墓所に運ばれて建立されています。
蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
| ryuichi | 03:02 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
2024-03-26 Tue
桜が咲くのが楽しみな季節になってきました。
皆様、お誘いあわせの上ご来場いただきます様お願いいたします。
「桜夜景時間」 big244com写真展 三春城下荒町「法蔵寺」本堂
日没から日の出までの桜のある風景を撮影
会期:2024年3月23日~4月28日
時間:10時~16時
会場:三春城下荒町「法蔵寺」本堂
〒963-7765 福島県田村郡三春町荒町169
※入場無料
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 16:09 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
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