2024-04-30 Tue
本日火曜日は定休日となっています。
またのご来店をお待ちしています。
28日朝の滝桜です。
霧に浮かび上がる姿も幻想的でした。
そして、夕方には真照寺参道の掃除です。
桜花の花弁は清掃しましたが、花の茎?と呼ぶんでしょうか、・・・毎朝のお参りの時に、それが気になってしまって清掃です。
ウォーキングしながらの滝桜道ゴミ拾いや、真照寺参道石段の清掃に没頭していますと頭も体もすっきりします。
ありがとうございます。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:45 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
2024-04-29 Mon
岩手県花巻在 大沢温泉
所用が花巻であり、日帰りが十分可能でしたが、気の合う方々と、前乗りで大沢温泉湯治館に宿泊して温泉・湯治三昧です。
ちょうど、『もうひとつの鈴木敏夫とジブリ展』を行っていました。
スタジオジブリ代表兼プロデューサーを務める 鈴木敏夫さん。
実は、長年プライベートで大沢温泉に通っているのそうです。
その繋がりから誕生したイベントだそうです。
宮沢賢治や高村光太郎が訪れた歴史ある温泉宿です。
昨年リニューアルオープンした岩手県花巻市の大沢温泉敷地内にある南部藩かやぶき菊水舘 昔ギャラリー「茅(ちがや)」
以前泊ったことのある部屋が素敵なギャラリーに改装されていました。
茅葺き屋根の建物とジブリの雰囲気が合っていてとっても素敵でした…
温泉に入らなくても展示場へはまっすぐ行けます。
駐車場も完備・・
本年12月8日まで
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:59 | comments (x) | trackback (x) | 🌸物見遊山諸国見聞録::男の隠れ家 |
2024-04-28 Sun
三春町公民館より、昭和37年から毎年発行された写真集「三春の文化財」です。
全20巻の三春の文化財を納めた写真集で、写真を元教育長を務めた本陣本店元社長の故川又恒一氏が担当です。
大城下大町、鳥文の吉田清三さんより「参考にして~」とお預かりしました。
茅葺屋根の龍穏院や形の定まる前の三春駒・・・
今では見れない画像の宝庫です。
文章も大変参考になります。
あいさつとして、当時三春町教育長だった武藤義男氏の文章が記載されています。
「三春の文化財写真集」が、二十年の歳月をかけて、その集大成をみることになりました。
見かけはささやかですが、発刊をつづけていくなかで、三春町の文化財の発見や再評価、さらには全国への紹介など、この写真集の果たしてきた役割ははかり知れません。
このような価値高い写真集二十巻が出来ましたのは、一にかかって企画、編集に参画された同好の方々、とりわけ撮影に精魂を傾けてくださった川又恒一さんのご労苦に負っております。
これらの方々に心から感謝申し上げます。
この写真集は、第二十集をもって完結いたしました。どうか、座右におかれて長くおたのしみいただきたいと存じます。
なお、町には、これに収め切れず割愛した文化財がまだまだ埋もれております。
いずれ機を得て続編を計画したいと思います。
そして、撮影者でありこの写真集発行の中心的な役割を果たした川又さんのあとがきが記載されていますのでご紹介します。
「レンズを通して二十年 文化財写真集に想う」
斎藤地内安養寺の如意輪さん、何という豊かな仏さんであろう。日本女性の優しさと厳しさ、凛としたものを内に秘めたこの仏を、最終のページに収録し得たことは、いま七十歳を迎えた身が浄化される思いです。
ふりかえれば、終戦の後、三春の昔の面影が消えてゆくのを惜しみ、レンズを向けてから三十年余、「三春の文化財」として出版し続けてユ十一年間、それは卒直にいって生易しいことではなく、時に挫折しそうになったこともありました。
しかし、心あるまわりの方がたの励ましと支えを頼りに、撮影からネガの処理、引き伸しから割付と解説まで、助言をいただきながらもひとりで通し得て、いま古稀を迎えた年に最後の第二十集の完結をみることができました。
二十一年前の出版の始めにあたり、当時の町議会議員故橋本久右工門氏・公民館長渡辺利雄氏のご協力は格別のものがありました。
その他、お力添えをいただいた多くの方がた、いまは亡くなられた方がたを含め厚くお礼を申し上げます。
この写真集を三春を愛する心と同じようにいとおしみ、研究の土台にしていただければ幸いです。
写真撮影者
川文恒 一
正に先人達の三春の文化を守るという気概と努力には敬意を表し町の自慢だともいます。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:15 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春城下歳時・風土記 |
2024-04-26 Fri
塵壺394号 令和6年4月26日発行
ご長寿万歳!“孤高の軍師”田村宮内少輔顕頼月斎入道
滝桜の樹齢千年には及びませんが、群雄割拠の戦国時代に103歳の高齢になっても軍略・知略を用いて第一線に立って政務・戦闘指揮を執っていた生涯現役の武将が三春にいました。
田村宮内少輔顕頼(頼顕の記載もあり)がその人で、仏門に帰依して落飾「月斎入道」と称した戦国武将三春田村氏の参謀役の軍師です。
日和田八丁目(守山?)から、三春に城を築いた三春田村氏初代となる田村大膳太夫義顕(植顕)の弟です。
甥にあたる三春二代の民部少輔下総守隆顕、そして、三代となる大膳太夫侍従清顕をも補佐して三春田村氏を名実ともに一級の戦国武将に導いた立役者の一人です。
また、甥の田村右馬顕基入道梅雪斎、同右衛門清康、橋本刑部顕徳(月斎の次男?)らとともに「田村氏四天王」と称されていました。
月斎は、田村家中の最長老として重きをなしその子供達、
嫡男・顕重 出家して出羽秋田の宗輪寺に住持、
次男・上宇津志城主の宇津志(移)宮内少輔(太夫)顕康(顕貞)、
三男・新田城主 新田民部顕輝(土佐守顕成)、
四男・田村石見守顕朝、(橋本刑部少輔顕徳?)
五男・早稲川舘の早稲川右馬助顕純、
六男・阿久津舘の阿久津右京亮顕義、
七男・木目沢舘の木目沢善五郎顕継、
八男・大槻舘の大槻内蔵頭顕直(仙道表鑑・田村系譜等参照)
月斎の一族郎党で「月一統」と称される田村家中における一大勢力を構成していました。
三春田村氏の最盛期の領地は田村郡を基本として仙道のほぼ全域に達していましたが、月斎は領土拡大に於いて田村家三世代に亘る歴代当主に仕えて家中で重きをなし、合戦においては最前線に陣取って戦の要となる「軍師」を務め、その勇猛さは周辺諸家に知られ、「畠に地縛、田に蛭藻、田村に月斎、無けりゃよい」(仙道軍兵記)と謳われるほどでした。
先頭の最前線となる諸城の城主を勤めた後に、三春城下の本丸北西、橋本刑部顕徳の舘近くに“椿舘”と称された「月斎舘(現消防三春分署の北側)」を築いて三春御城(舞鶴城)及び城下防衛の要所を固めます。
月斎は、戦国の教養人としても第一級で、天正六年五月、跡取りの宮内顕康のために一五ヵ条から成る家訓を記しています(世文書)。
今に伝わるのはそのうちの八ヵ条ですが、 博奕双六の禁止、狂言・綺語を慎しむべきことなど、一身を修めることについての厳しい戒めとあわせて、戦陣における敵打の厳禁、および、家中の喧嘩両成敗など、戦国の世を生き残る為に軍律秩序の堅持に関する事柄が記載されていますが、この家訓の文言からは、戦国時代を生き残る術に対する知識の高さがうかがえます。
天正十三(1585)年十二月、田村家菩提寺福聚寺第九世・定南紹策大和尚は、月斎の求めに応じて「不思議以=天命、如期罷成候事、畢竟弓矢之冥一、夫月斎公者、[田村賀翁居士之第二子而、 或時遊三六芸之園、或時者志]」と記された一文を創っています。
さらに、月斎は、天澤寺第六世・心叟道存大和尚から仏道を習う参禅の者として「正徹」という諱(死後その徳をたたえて贈られる名)と「頂山」の号を拝受、そして「聖休」とも号した記載も残ります。
晩年、平窪(現いわき市中平窪岩間)にある義姉の実家、岩城氏と縁の深い常勝院岩城寺所蔵の古文書の中に月斎が後継ぎである宮内大輔に送ったとされる遺書が残っていますが、その文筆を見ると文才の高さがうかがえます。
和歌を嗜む優美さと、禅宗に帰依し法名も「月斎」とするなど、仏道心とを兼ね備えた第一級の戦国武将でもありました。
月斎は長寿の武将として伝わっています。三春に本拠移し舞鶴城築城の永正元年(1504年)が元服後の17歳。以来、戦陣に明け暮れ会津蘆名氏、須賀川二階堂氏、常陸佐竹氏、岩城氏、相馬氏、伊達氏と戦国のとはいえ四面楚歌の中で知力謀略限りを尽くして激闘を繰り返し長い年月にわたって田村氏を守り抜きました。
田村・伊達連合の最大の危機とされる天正13年(1585年)の蘆名・佐竹連合軍との合戦・本宮「人取橋合戦」では98歳で軍配を振るって田村勢を率いたことになります。さすがに、翌年の清顕死去以降に発生する田村家内紛や相馬・岩城氏からの領内防衛戦では三春城下より指図を出していたと考えられますが、最後に公の文書に記載されているのは、天正18(1590)年の「伊達治家記録」の二階堂氏滅亡後の処遇に関する文書で、長享元年(1487年)生まれの月斎は、この時なんと103歳!
生涯現役、ご長寿万歳! 蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝
生涯現役、ご長寿万歳! 蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!
| ryuichi | 18:36 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏::御春輩(みはるのともがら) 田村武士衆 |
2024-04-26 Fri
ご長寿万歳!“孤高の軍師”田村宮内少輔顕頼月斎入道
滝桜の樹齢千年には及びませんが、群雄割拠の戦国時代に103歳の高齢になっても軍略・知略を用いて第一線に立って政務・戦闘指揮を執っていた生涯現役の武将が三春にいました。
田村宮内少輔顕頼(頼顕の記載もあり)がその人で、仏門に帰依して落飾「月斎入道」と称した戦国武将三春田村氏の参謀役の軍師です。
日和田八丁目(守山?)から、三春に城を築いた三春田村氏初代となる田村大膳太夫義顕(植顕)の弟です。
甥にあたる三春二代の民部少輔下総守隆顕、そして、三代となる大膳太夫侍従清顕をも補佐して三春田村氏を名実ともに一級の戦国武将に導いた立役者の一人です。
また、甥の田村右馬顕基入道梅雪斎、同右衛門清康、橋本刑部顕徳(月斎の次男?)らとともに「田村氏四天王」と称されていました。
月斎は、田村家中の最長老として重きをなしその子供達、
嫡男・出家して出羽秋田の宗輪寺に住持、
次男・上宇津志城主の宇津志(移)宮内少輔(太夫)顕康(顕貞)、
三男・新田城主の新田民部顕輝(土佐守顕成)、
四男・田村石見守顕朝、
五男・早稲川舘の早稲川右馬助顕純、
六男・阿久津舘の阿久津右京亮顕義、
七男・木目沢舘の木目沢善五郎顕継、
そして、八男・大槻舘の大槻内蔵頭顕直(仙道表鑑・田村系譜等参照)らの一族郎党で「月一統」と称される田村家中における一大勢力を構成していました。
三春田村氏の最盛期の領地は田村郡を基本として仙道のほぼ全域に達していましたが、月斎は領土拡大に於いて田村家三世代に亘る歴代当主に仕えて家中で重きをなし、合戦においては最
前線に陣取って戦の要となる「軍師」を務め、その勇猛さは周辺諸家に知られ、「畠に地縛、田に蛭藻、田村に月斎なけりゃよい」(仙道軍兵記)と謳われるほどでした。
先頭の最前線となる諸城の城主を勤めた後に、三春城下の本丸北西、橋本刑部顕徳の舘近くに“椿舘”と称された「月斎舘(現消防三春分署の北側)」を築いて三春御城(舞鶴城)及び城下防衛の要所を固めます。
月斎は、戦国の教養人としても第一級で、天正六年五月、跡取りの宮内顕康のために一五ヵ条から成る家訓を記しています(世文書)。
今に伝わるのはそのうちの八ヵ条ですが、 博奕双六の禁止、狂言・綺語を慎しむべきことなど、一身を修めることについての厳しい戒めとあわせて、戦陣における敵打の厳禁、および、家中の喧嘩両成敗など、戦国の世を生き残る為に軍律秩序の堅持に関する事柄が記載されていますが、この家訓の文言からは、戦国時代を生き残る術に対する知識の高さがうかがえます。
天正十三(1585)年十二月、田村家菩提寺福聚寺第九世・定南紹策大和尚は、月斎の求めに応じて「不思議以=天命、如期罷成候事、畢竟弓矢之冥一、夫月斎公者、[田村賀翁居士之第二子而、 或時遊三六芸之園、或時者志]」と記された一文を創っています。
さらに、月斎は、天澤寺第六世・心叟道存大和尚から仏道を習う参禅の者として「正徹」という諱(死後その徳をたたえて贈られる名)と「頂山」の号を拝受、そして「聖休」とも号した記載も残ります。
晩年、平窪(現いわき市中平窪岩間)にある義姉の実家、岩城氏と縁の深い常勝院岩城寺所蔵の古文書の中に月斎が後継ぎである宮内大輔に送ったとされる遺書が残っていますが、その文筆を見ると文才の高さがうかがえます。
和歌を嗜む優美さと、禅宗に帰依し法名も「月斎」とするなど、仏道心とを兼ね備えた第一級の戦国武将でもありました。
月斎は長寿の武将として伝わっています。
三春に本拠移し舞鶴城築城の永正元年(1504年)が元服後の17歳。
以来、戦陣に明け暮れ会津蘆名氏、須賀川二階堂氏、常陸佐竹氏、岩城氏、相馬氏、伊達氏と戦国のとはいえ四面楚歌の中で知力謀略限りを尽くして激闘を繰り返し長い年月にわたって田村氏を守り抜きました。
田村・伊達連合の最大の危機とされる天正13年(1585年)の蘆名・佐竹連合軍との合戦・本宮「人取橋合戦」では98歳で軍配を振るって田村勢を率いたことになります。
さすがに、翌年の清顕死去以降に発生する田村家内紛や相馬・岩城氏からの領内防衛戦では三春城下より指図を出していたと考えられますが、最後に公の文書に記載されているのは、天正18(1590)年の「伊達治家記録」の二階堂氏滅亡後の処遇に関する文書で、長享元年(1487年)生まれの月斎は、この時なんと103歳!
生涯現役、ご長寿万歳! 蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春!
| ryuichi | 03:27 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
2024-04-25 Thu
三春町文化財保存活用地域計画
みはる観光協会を代表して同策定協議会委員に選出されました。
三春町では今春から、「三春町文化財保存活用地域計画」の作成に取り組みます。
この計画は、文化財の所有者や行政だけでなく、町民の皆さんやさまざまな団体の皆さん、専門家の方々とともに、「地域の宝物」を保存・活用し、後世につないでいくための計画です。
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:20 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
2024-04-24 Wed
「戦の世に生きて~独眼竜政宗公正室愛姫様の生涯~」小林克巳 (著)
旧御木澤村出身の歴史家伊藤さんより、小林克巳先生の書かれた「戦の世に生きて~独眼竜政宗公正室愛姫様の生涯~」を献書として頂戴しました。
この作品は、先に三春町交流館「まほら」で公演された「愛姫をもっと知ろう」~琵琶と舞と歴民の藤井さんのおもしろ講話~
の元になった小説で、小林先生の依頼で伊藤さんが、資料提供と時代考証等のアドバイスをされた作品です。
小林先生は経歴が示す通り病院を経営されている現役の医者の傍ら様々な小説を世に送り出しています。
そして今回は愛姫
戦国時代と言えば、猛々しい武士たちの生き様に注目しがちですが、その影には彼らを支える力強くも温かい妻・女性たちの力強い姿がありその典型を三春田村氏の娘で伊達政宗の“愛姫(めごひめ)”法名・陽徳院の視線を通して描いた作品です。
愛姫について、妙心寺百五十三世住持で瑞巌寺中興開山導師の雲居禅師も「家庭をよく治め、慈愛深く聡明な奥方であられました」とその人柄を語る言葉が伝わっています。
愛姫こと法名・陽徳院は、永禄12年ころ(1569年)田村郡三春町に城を持つ戦国大名田村清顕の娘として生まれました。
そのころ田村氏は、蘆名(会津)・二階堂(須賀川)・石川(石川)・白川(白河)・岩城(いわき)など、敵に周囲を囲まれていました。
このような状況の中で、清顕は伊達氏と結ぶことによって家を守ろうと考え、娘である愛姫を当時米沢城主だった伊達輝宗の嫡男政宗に嫁がせます。
この縁談によって伊達氏の力を得て、田村氏は領地を維持することができました。
政宗と愛姫は一時夫婦仲が悪くなったと伝えられていますが、その後夫婦関係は修復に向かったと思われ彼女が京の聚楽第の伊達屋敷に移ってから、文禄3年(1594年)には後に松平忠輝の正室となる五郎八姫を出産しています。
それから、仙台藩2代藩主の忠宗、岩ヶ崎伊達家初代当主の宗綱、田村家の養嗣子となるはずだった竹松丸の4人の子を政宗との間に授かっています。
太閤秀吉・豊臣の天下となり聚楽第の伊達屋敷に住むようになってからも、今でいうファースト・レディー外交的な役割で政宗に京の情勢を知らせ「天下はいまだ定まっておりませぬ。殿は天地の大義に従って去就をお決め下さりませ。私の身はお案じなさいますな、匕首を常に懐に持っております。誓って辱めは受けませぬ」という手紙を送り、絶えず政宗を“内助の功”で乱世の伊達外交を支えていたと美談が伝わっています。
[著者略歴]
小林克巳
福島県立医科大学卒
同大第1外科
水戸赤十字病院外科
(現)医療法人社団克仁会理事長
茨城県医学会学術地域医療功労者賞受賞
茨城文学小説部門受賞「朱の大地」
《著書》
「秀吉と利休 ~相剋の朝~」
「信長と久秀 ~悪名の誉~」
「皇国の興廃 ~この一戦にあり~」
「朱の大地」
「邂逅」
「平成の徒然草」
三春田村氏は、豊臣秀吉によって奥羽仕置により改易になりましたが、愛姫のはたらきかけにより、孫にあたる宗良が田村氏を名乗り岩沼三万石の大名に取り立てられました。後に、所替えにより一関三万石を領し幕末まで続きました。
「戦の世に生きて~独眼竜政宗公正室愛姫様の生涯~」小林克巳 (著)は、三春岩田のカネサン書店、城下大町のさくらカフェにて絶賛販売中です!
三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍
| ryuichi | 03:55 | comments (x) | trackback (x) | 🌸戦国大名 三春田村氏 |
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