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塵壺395号 「両国国技館・大相撲夏場所観戦と三春の大相撲 斉藤・松樹神社」





両国国技館・大相撲夏場所観戦と三春の大相撲 斉藤・松樹神社







 両国国技館で大相撲五月場所「夏場所」!なんとその『中日(8日目の日曜日)』に人生初めての大相撲観戦の夢が叶いました!

 以前は大相撲にそれほど興味はありませんでしたが、当店のマスコットボーイの悠大君が力士の豪栄道に似ているということがキッカケで、少しずつテレビ観戦をするようになったのでした。






 それ以来、すっかりハマってしまい、贔屓の力士(もちろん郷土の力士が中心)の取り組みの際にはテレビに向かって大声で声援を、そして、録画しても見るくらいの大相撲ファンになってしまいました。


 「いつかは国技館での観戦を!」と願っていた矢先に「升席が取れたので四人で行こう」と『大波三兄弟応援バスツアー』の手配から保険、道中の飲食はもちろん昼食宴会など、全て完璧に段取りしていただいたのが大先輩の田中金弥さんでした。

 そして、今回その夢が叶い老舗呉服屋の旦那さんや会社役員の方とともに、まもなく喜寿を迎える金弥さんを筆頭にしてちょい還暦を過ぎた“爺っちゃん4人の珍道中”となったわけです。


 両国国技館前に着いたのはちょうど正午でした。

 まずは館内に入り、自分たちの升席を確認してから昼食を取るために一時国技館を後にしました。

 少しだけ両国駅周辺を散策したのちに、金弥さんが知っている店に入り、生ビールを呑みながら両国名物の海鮮料理屋さんで海の幸を堪能することができました。






 食事が終わってから十両の取り組みまでには少し時間があったので、爺っちゃん4人はミーハー並みに、国技館脇の力士入場口の前で力士の入り待ち・・・やはりお相撲さんは大きい!大銀杏を結った力士の凛々しさとその存在感を肌で感じました。


 国技館に再入場すると、中日・日曜日ということもあり、会場は熱気むんむんで応援する歓声もヒートアップしてテレビ観戦とは大違いでした。

 この夏場所は横綱はじめ三役以上の力士が5人も不在という今までになかった波乱含みで、郷土力士の筆頭である”若元春”も怪我で休場してしまい応援することができませんでした。 






 そして、何と言っても横綱・照ノ富士の不知火型の土俵入りが見られなかったことが一番残念なことでした。

 しかし、大の里などの若い力士が成長してきて下剋上・群雄割拠の状況が大相撲の人気に拍車をかけており、また生で観戦する大相撲の迫力はすさまじく臨場感そのものが身に染みてきて感動そのものでした。


 特に宇良と豊昇龍、そして結びの琴桜と王鵬の二番は一生心に残る取り組みとなり、国技館での大相撲を十分に堪能、満喫してまいりました。そして、中日はあっという間の結びの1番へ…。

 夢心地というのはこういうことなのでしょう。

 今回、貴重な経験と素晴らしいご縁をいただいた金弥さんには心より感謝申し上げます。








 ところで、三春で相撲といいますと、中妻地区の神社、特に斉藤の松樹神社(旧妙見菩薩)にある土俵を思い浮かべます。









 この神社は、三春城下の南、斉藤村安養寺の裏山松樹山の山頂に鎮座しています由緒ある御宮様で、戦国時代、元亀元年(1570年)伊藤氏の祖藤原頼位氏が神舘城の峰続きとなる‘北ノ月見崎’に妙見菩薩を勧請して軍中勝利祈願をしたところと伝わっています。

 かつての御祭礼・縁日は、旧暦の春は4月24日、秋は9月24日でしたが、明治3年に発布の「神仏分離令」により妙見様は「松樹神社」と改名され祭礼も新暦となっています。








 妙見様は、昔より「相撲の神様」として知られ、秋祭には庄屋を中心として番付をつくり、旧斎藤村鎮守「見渡神社」とおなじく、村中で盛大にお祭りを行ったとのことです。







 明治になって若連会、そして、大正時代には青年会主催となり2年に1回に相撲興行を行うようになりました。

 祭礼当日には高い木戸の両側に美しい絵を描いたぼんぼりを沢山建ててとても華やかだったと伝わっており、祭礼には近郷近在より相撲好きな人達が大勢集まり、当時は香具屋と呼ばれていた現在の露天商・テキヤさんが多数軒を並べるなど大いに賑わったものだったとのことです。 


 「斎藤・おらが里ざっと昔」参照 




      蒼龍謹白 さすけねぇぞい三春! 拝


| ryuichi | 03:03 | comments (x) | trackback (x) | 🌸「塵壺」 三春昭進堂 |
本日火曜日は定休日となっています。




本日火曜日は定休日となっています。


またのご来店をお待ちしています。



三春昭進堂 6月の定休日フレッシュ休暇のお知らせ


「仕事と生活の調和(勤労者生活の向上)」に関する働き方改革の一環として昨年度より取り組んでいます。

連休による定休日を下記の日程で予定しています。


6月3日(月)

6月4日(火)

6月5日(水)

3連休となります。



島根県浜田市へ観音寺様へ墓参と参禅を兼ねて、妻の実家へ帰省してきます。


お客様にはご不便をおかけしますが、どうぞよろしくお願いいたします。



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:03 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
岩江・大峰の和尚坦 大豆生田道綱物語  
岩江・大峰の和尚坦 大豆生田道綱物語  


磐越東線舞木駅の南方、旧三春・郡山街道からほど遠からぬ山の頂きに大きな古い大きな塚があり、里人達は”和尚壇”と呼んでいた。

今から約五百数年前の室町時代永享10年、第4代鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立に端を発し、室町幕府6代将軍足利義教が、持氏討伐を関東管領の命じた戦い「永享の乱」。

この敗れた、鎌倉公方足利持氏一党と共に、鎌倉の永安寺で自刀した叔父の稲村公方足利満貞の弟満直が、後難を恐れて落ち延びて、奥州白川(白河)の関川寺に入り、自分だけ仏門に帰依してしまいます。


この時、一緒に逃れた満直の家臣で、矢吹の住人大豆生田道綱は、安住に後を探して名地を逃げまわった末に、正神平(現下舞木地内)に来て一寺を建て関根山積雲寺と称し、沙弥道満と称して出家して仏門に入り佛に仕えていました。


しかし、関東管領は、追討の追っ手を差し向けます。



管領の内意を受けた、時の田村庄司、守山の田村庄司家では、その家臣下枝舘の橋本刑部太夫利政をしてこの積雲寺を攻めさせます。

 


永享十年(1438)、鎌倉公方足利持氏が幕府と対立して起こした「永享の乱」に際して、幕府は南奥の国人十二名に持氏を攻めるよう御教書を下しましたが、そのなかに田村遠江守がいます。


この遠江守は田村氏の系図などから田村直顕と推定されている方です。


 関東で起った永享の乱、それにつづく結城合戦によって、鎌倉府体制は崩壊します。



その後、持氏の遺児が赦されて新公方となって鎌倉府が再興されたが、新公方成氏は管領上杉氏と対立して「享徳の乱」を引き起こし、この事態に室町幕府は、鎌倉公方成氏追討を大々的に行い、将軍義政は関東・奥州の諸将に軍勢催促の御教書を下しました。


その中に「田村次郎と田村一族」の名があり、「直朝と談合加え」て進発せよとある。


道綱は全てをあきらめて縛につき、ついに寺・堂宇は焼かれてしまいます。


永享十二年六月のことだが、こんな非境に立ちながらも一族、里人に危難の及ぶことを恐れて潔く生き埋めの刑に服することになります。


これを知った、一族郎党や里人たちの悲しみはその極に達します。


道網は、白い法衣に念仏鐘を首にかけ、小量の水を持って生理の刑場に向ったとこう沿道の郎党や里人たちの号泣は、道綱をかこんで止まず。

やがて通綱は北方のお寺跡の方に向い悲しくも処刑されてしまいます。



里人たちは、一夜を付近で泣きあかしたが、生理めになった道綱の打つ念仏の鐘の音が地下から三日三晩に亘って悲しく響いたといわれています。


生理の枢の上方には、竹の節を抜いて地上まで出して呼吸が出来ねようになっていたとのことです。


いまの間明日屋数は、大豆生田道綱の遺族が帰農しにとこねで、元は大豆生田と大豆生田と書いて、間明日といったそうです。


いまもなお間明日の雑木林の峰の上に鎮座する和尚壇と称される黒く巨大な塚が風雨に曝され、寂しく昔の物語を伝えています。


また、その周囲には全滅したと伝えられる間明田屋敷の墓碑が無気味に乱立していて詣でる人達の涙を誘っている。


丑三つの刻、この雑木林の峰を通ると、無気味な鐘の音が土の中から、泣くが如く、むせぶが如く聞こえてくるという身の毛もよだつ昔話が残っています。



尚、積雲寺跡は現在の旧農協岩江支所建物の北側に焼けた石などと共にありますが、和尚檀は、支所の正面に見える磐越東線南に小高い峰にあり、直径20メートル、高さ10メートルほどの円形の檀でした。


三春町公民館 地区高齢者学級編 「おらが里のざっと昔 その1」 平成元年発行 参照


編集、及び発行に対しまして、敬意を表します




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍

| ryuichi | 03:37 | comments (x) | trackback (x) | 🌸旧岩江村::上舞木 |
2024 「逃水(にげみず)」 三春水まんじゅう始まりました!





2023三春水まんじゅう 「逃水(にげみず)」 



三春昭進堂の夏の定番水まんじゅうの「逃水」の販売を始めました。







「塩レモン」も好評に付き定番として販売いたします。



レモンの酸味に塩味でアクセントをつけました。






そして、抹茶小豆

女将が煉った抹茶を生地加えました。

中餡は小豆をよりいっそう感じられる当店特製つぶし餡です。












「逃げ水」というネーミングは、ご存知の方も多いかと思いますが、子母澤寛の小説「逃げ水」から頂きました。


幕末の徳川幕臣で、大政奉還後、徳川幕府十五代将軍徳川慶喜の護衛の任務を最後まで遂行した奥詰、髙橋伊勢守謙三郎泥舟を描いた小説です。









冷凍販売でご案内しています。

これからの時期ですと、お買い上げから約30分~1時間位で食べごろになります。

そのまま冷凍保存もオッケーです!









日持ちは冷蔵庫で2日間位ですので、宜しくお願いいたします。




春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍


| ryuichi | 03:36 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯::季節のお菓子  |
新緑の三春城下 2024



初夏、新緑の滝桜よりおはようございます。


三春城下は気持ちの良い初夏を迎えています。


田植えも一段落して、ウォーキングには最適な季節です。








三春藩主祈願寺「真照寺」も山内が鮮やかな新緑に包まれています。


老紅枝垂れ桜「蒼龍」も怪獣のように元気もりもりです。









菖蒲の花も刹那の美しさを謳歌してみるものを楽しませてくれています。








山内の静寂の中に小鳥の声や鯉の飛び跳ねる音・・・暫し幽玄の世界へ誘い浮世の喧騒を忘れさせてくれます。







縁側を拝借して、しばしの休息を楽しんでいます。




三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍


| ryuichi | 03:08 | comments (x) | trackback (x) | 🌸三春藩主秋田家祈願所 真照寺::祈願所の四季 |
お陰様で30回年目の結婚記念日を迎えることができました。




お陰様で30回年目の結婚記念日を迎えることができました。

これもひとえに、女房殿のお陰だと思っています。

心より感謝しています。

結婚したのは阪神大震災の年でした。


アッというあの30年。








夫婦二人三脚という言葉がございますが、文字通り三春昭進堂を夫婦二人で切り盛りしてきました。









サラリーマンの家庭で育った妻は、妻として、二人の男の子を持つ母として、女将として、私共々三春昭進堂の大黒柱として支えてくれています。

数字に表せ切れないと思いますが、食事も1年365日×30年分の食事を用意して、洗濯も家族分で一日2回だとしたら・・・。

頭が上がりません。

そして〜仕事です。

女将として店頭販売から製造、経理~ 本当にお疲れ様です。

子供の世話も加味されると〜〜

感謝の言葉しか出てまいりません







また、昭進堂の古いジンクスやしがらみをすべて改善・改修しながら、新しい三春昭進堂の親戚付き合いも含めた歴史ともいうべきストーリーを歩いてきました。


結婚以来、毎朝、私の大好きな豆を挽いて入れてくれるコーヒー ・・



ありがとう💖~そして、今後ともよろしく~









あとは、本当の孫を待つばかりです。






I love you,OK ?

この世界に たった一人のおまえに 俺の愛のすべてを捧げる

抱きしめればせつなくなる 俺のこの腕でいつも幸せにしたい

I love you,OK

振り返れば 長くつらい道も お前だけをささえに歩いた

窓辺にともる灯りのように 俺のこの胸にいつもお前が燃えてる

求め合って生きていたい この世界のすべてが闇に消えても

I love you,OK!

見つめ合えば ただそれだけで解る 誓い合った言葉は

I love you

I love you,OK  矢沢永吉






春陽郷三春城下 御菓子三春昭進堂 菓匠蒼龍





| ryuichi | 03:04 | comments (x) | trackback (x) | 🌸春陽郷三春 日暮硯 |
一関藩田村氏三万石藩主 田村家の菩提寺「大慈山祥雲寺」




一関藩田村氏三万石藩主 田村家の菩提寺「大慈山祥雲寺」。

祥雲寺の前身は、三春の田村家五代目の当主という立ち位置の田村宗良(伊達忠宗の三男)が寛文九年(1669)に岩沼(宮城県)に開設した長谷山大慈寺で、一ノ関移転後の初代藩主田村建顕が天和二年(1682)岩沼から一関に移封された際、寺も一緒に移し、宗良の母お房の方(祥雲寺殿)を開基に大慈山祥雲寺と改めました。








「大慈」は、伊達政宗・愛姫の第二子忠宗の法名「大慈院殿」にちなんでつけられた。
 
開山は大機円応禅師で、本尊を千手観音とさだめ、藩主はじめ家臣領民の深く信心を集めたといわれます。


忠宗の側室であったお房の方は、観音信仰にあつく、寺伝によると、寛文六年の江戸勤番中のある夜、枕辺に観世音菩薩があらわれ、その霊夢に心動かされ、岩沼の地に一寺を建立したとありました。
 










「田村家墓所」は、本堂の左手に田村家墓所がありますが、階段の上に土饅頭です。


大正期になって品川東禅寺にあった歴代墓を、纏めて合葬した際に墳丘墓に改めたようです。







忠宗の母で政宗の正室・陽徳院(愛姫)は、三春城主田村家三代当主淸顕の娘で、天下人豊臣秀吉による「北条小田原攻め」「奥羽仕置」と、不仲説が囁かれた伊達政宗の謀略で、三春田村家が断絶したのを深く悲しみ、遺言で宗良に田村家を創設して藩主に就かせたという経緯の中で、この祥雲寺は愛姫、三春田村家と深い繋がりがあります。


この縁で昭和六十二年、三春町と一関市とが姉妹都市の調印をした。

  なお、祥雲寺は田村氏の菩提寺となっており、円墳の墓所には初代宗良から十五代良顕まで田村家代々のご遺骨が納められています。

また、境内に建つ田村記念館には貞享元年(1684)作の忠宗、房姫の木像のほか、市指定文化財の「常香盤」や戊辰の役時の陣羽織、時の太鼓、子安観音像、田村家愛用の

黒漆蒔絵重箱など三十点以上の文化財を展示されていました。



一関藩田村家は、幕府から伊達家に代々発給される判物と領地目録に、62万石のうち3万石を田村家に与えることが明記され分知されて成立した藩です。

即ち、幕府・徳川将軍家の直臣として扱われ、幕府から直接の指示を受けていました。








一方、一関藩は、将軍家から直接領地朱印状や領地判物を交付されていません、

したがって、仙台藩からの干渉もあって、大名取立から間もない寛文2年(1662年10月)にあり、「領内仕置六ヶ条」により、領内での仙台藩以外の制札が禁止されます。


これにより、自主的な法令を公布することが不可能になり、仙台藩の支藩的な立ち位置となっています。






また、一関所替後の所領は北上川に二分されていましたが、二分された一関藩領の間には仙台藩領の村落が10余村あり、一関藩は政治と経済ともに仙台藩の影響下に置かれています。

藩職に仙台留守居役が設置され諸大名や幕臣を記した「須原屋武鑑」でも仙台藩の支藩扱いでした。








赤穂浪士の赤穂藩主浅野内匠頭が、吉良上野介に刃傷に及んだ後に、御預け、切腹をしたのは愛宕下にあった、一ノ関田村家上屋敷でした。



三春城下真照寺参道 御菓子三春昭進堂菓匠蒼龍



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