山々の紅葉が里に下り始め、北国の小さな城下町三春にも色鮮やかな山々のデッサンが拡がり、収穫の秋を迎えました。そんな秋晴れの中、子供を連れて久しぶりに芹ヶ沢にある小鳥山へ紅葉狩りに行きました。
私が小さい頃、秋になると子供会などで鳥山と称して小鳥山に行き、よく芋煮会をしたものでしたが、近頃はあまり聞かなくなりました。
小鳥山公園は、明治の末に、凶作による難民救済事業の為、大町の薬種商回春堂橋元柳平氏が私財を投じて競馬場として整備し、田村馬場と称し、三春駒として名高い三春産馬振興を目指しました。大正期に入り、当時の新しい乗り物「自転車」での競技場としても使われ、その後小鳥山は公園として、また競技場跡は散策路として広く町民に開放され、秋になると絶好の紅葉狩りの名所として、町民に愛されています。
散策路の途中には、回春堂橋元柳平氏の遺髪を祀る無量庵碑の址が在り、橋元氏の偉業が偲ばれ、私も商いを生業とする一人として柳平氏に敬意を表し、息子共々無量庵址に手を合わせて来ました。
時代はさかのぼって、戦乱にあけくれた唐の時代(627年)、生きる希望を無くしかけていた人々を救おうと、一人の青年僧が長安の都を旅立ちました、その名は、玄奘、後の西遊記で有名な玄奘三蔵法師です。それまで名僧、高僧が天竺へ旅立ちましたが、誰一人帰ってきたものはいませんでした。玄奘は、16年という歳月と、苦難の末、天竺(現在のインド)より、経典や仏像をたくさん持ち帰ったと言われます。玄奘は、帰国後、亡くなるまでの約20年間、その経典を翻訳し続け、人々を救済しようとしました。
人々は、玄奘が天竺よりもたらした経典だけでは、生きることの苦しみからは解き放たれませんでしたが、玄奘三蔵法師のその勇気と、亡くなるまで翻訳しつ続けた救済心は、生きとし生ける者の心の支えとなり、今日まで般若心経など仏教の経典として人々を導いています。
橋元柳平氏も玄奘三蔵法師も人々を救済するという強い意志で事に臨み、その姿が人々の生きる支えとして今も心の中にあるようです。
|