「欲深き人の心と降る雪は積もるにつけて道を忘るる」

 

宴席に臨席する機会が多くなる季節です。最近宴席の最後に「作ってくれた人がいます。席を立つ前に、残さず食べましょう」と臨席の方々に一声かけるようにしています。
三春の各所、特に神社やお寺に、「カヤの古木」を良く見かけます。これは自然発生ではなく、三春藩が、凶作や飢饉に備えカヤの実を蓄えるため、非常食用として植樹させたといわれています。禅宗の僧堂では、朝は粥、昼は一汁一菜、夜は雑炊。これが修行僧の日常食です。その上、全ては自給自足、とは言っても托鉢で米などは頂いてきます。自給自足も、畑で作る以外に寺周辺の山野を歩き野草を摘み、根を掘ってくる。正に「菜根譚」そのものです。「身土不二」「物我一如」の心です。つまり、命は、他の命を殺生してしか生きられないという宿命があります。そして禅寺では、最低限を守り、感謝と謝罪の気持ちを忘れない故、食事の前後には"偈"を唱えます。
  「一滴たりとも無駄にするな。一瞬たりとも無駄にするな。時の流れに遅れをとるな」という意味といえます。即ち「急ぐなよ、でも遅れるな、ゆっくりな」ということでしょうか。"自然体"ということと、スローライフやスローフーズがいうノンビリ生きろ、ユックリ作れとは些か違いがあるように感じます。また、禅の修行僧は、食べ物は一汁一菜、着る物は、夏と冬の二枚だけという清貧の生活で充分に生きていける。もし、それに何か加わればものすごく豊かに感じるといいます。
長老の方に話を伺いますと、「毎日、米を食べ、肉や魚を買って食べるというのは夢のようだと」話されます。季節感や地域性も希薄になり、自給自足の食生活は歴史の彼方へ忘れ去られようとしています。これは、食事だけのことを言っているのではなく、生き方そのものに対する戒めなのでしょう。
こんな歌があります。「欲深き人の心と降る雪は積もるにつけて道を忘るる」私利私欲に追いまわされていると、人としての道を見あやまってしまう。自分の利のみを考えていると他人のことは見えなくなってしまいます。それは、あたかも雪が、田畑と道とをわからなくしてしまうのと同じように。
亡き母の「米を作るのには一年かかる、ご飯を残すと目がつぶれる」と戒偏食気味の私を、戒められたことを思い出します。

蒼龍謹白 合掌