所用があり、青森は津軽まで出かけてきました。
"せっかく"なので、三春藩主秋田氏のルーツを訪ね「安東水軍」を率いた安倍安東(安藤)氏の本拠地、東日流(津軽)(現五所川原市)にある「十三湊(とさみなと)」関連の遺構や十三湖にある市浦歴史資料館の見分に足を延ばしてみました。
十三湊は、中世の鎌倉時代から室町初頭にかけて、環日本海地域の交易の中心的な国際港湾都市として繁栄したとされています。
鎌倉期の「廻船式目」にも「津軽十三の湊」として、博多や堺と並ぶ全国「三津七湊(さんしんしちそう)」の一つとしてその繁栄ぶりが記載されています。
平成3年から始まった十三港遺跡の発掘調査では、ほぼ当時のままの形で津軽十三湊の町並みや遺構が残っていることから、十三湊衰退の要因となった大津波来襲による壊滅も否定できなくなっています。
また、当時の博多に匹敵する東日本では最大規模の都市で、シナ製の陶磁器、高麗青磁器、西域の青ガラスなどが多数出土しており、広く海外とも交易を行っていた国際的な貿易都市だったことが証明されています。
秋田氏の祖である奥州安倍氏は、大彦命を祖とする中央豪族の阿倍氏(安倍氏)が東北の任地に赴き子孫を残した。
又は、長脛彦の兄安日彦が神武天皇に敗れた後、津軽に亡命した子孫等々。
所説ありますが、いずれにしても子孫というのが、安倍貞任(あべのさだとう)とされています。
安倍貞任は、平安時代末頃には、現在の盛岡市の西にあったと言われている厨川柵(くりやがわのさく)を中心に、奥州に一大勢力を組織し、貴族中心の大和朝廷に抗しました。
朝 廷は、その討伐の為に出羽の豪族清原氏等の助けを借りた鎮守府将軍陸奥守源頼義、義家親子を派遣します。
"前九年の役"と呼ばれるこの戦いで貞任は敗死して安倍氏は滅亡、当時3歳であった第二子の高星丸(たかあきまる)が、津軽へと落ち延び藤崎城を本拠地として、奥州安東氏を興します。やがて、安東氏は「十三湊」に移り、「安東水軍」率いて十三湊を国際貿易港として繁栄させていくことになります。
当時、北は樺太サハリン、高麗(朝鮮)、南は南宋等シナ沿岸州、さらには天竺(インド)の各国に拠点を築いて、相互貿易を行い、環日本海を中心とした一大貿交易文化圏を築いていきました。
一説には、インド洋を超えて、紅海・中東まで手を広げていたとされています。尚、当時の十三湊には、日本全国だけでなく、蝦夷、樺太、高麗、シナ、そして南蛮の商人も店を構えていたと伝わっています。
安東氏は、"日之本将軍"と称して蝦夷沙汰代官職"蝦夷探題"(現北海道や樺太サハリン等との海外交易許可)等の諸権利を鎌倉幕府執権北条氏から与えられており、執権北条氏がいかに安東氏を重視していたかがうかがえます。
鎌倉末期からは、津軽藤崎城に拠る宗家上国(かみのくに)家と、十三湊を本拠とした下国(しものくに)家とに分かれますが、戦乱の世が安東氏を飲み込みます。
津軽を領した下国家は、室町期の南部氏の津軽侵入によって、十三湊から蝦夷地に逃れ、まもなく出羽に戻って檜山(ひやま)(現能代市)に城を築き、そこを本拠とした檜山安東(ひやまあんどう)氏。
一方、上国家は、出羽小鹿島や出羽湊(現秋田市土崎)を領し、湊に城を築いて勢力をもった湊安東(みなとあんどう)氏に分かれます。
後に下国家の檜山安東の愛季(ちかすえ)が上国家湊安東家をも継承して、戦国期の元亀元年(1570年)に上下安東氏を統合し戦国乱世を乗り切ります。
以後、徳川政権下に於いて、秋田から茨城宍戸(友部)を経て三春へと移り明治維新を迎えます。
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