茶事などに参りますと「煙草盆」は、客をもてなす道具として在り 装飾的な調度品として拝見しますと、煙草も高級な嗜好品の一つとして扱われていたと改めて感じます。
明治34年4月1日、専売法施行と同時に大蔵省三春専売局(日本専売公社)は、現在の鎌田前(城下八幡町末)に新設され同年中に三春煙草専売所と改称されます。大正4年4月1日、郡山専売局三春出張所と制度が変り、昭和2 4年6月1日からは現在の日本専売公社三春出張所となりました。
この三春専売局は大蔵省直轄の官庁で、管轄は東北6県から北海道一円、役所職員も40人余も数えた程でした。
当時の三春専売局長は、午前9時頃の出勤に「門衛8人が門前に整列して敬礼で迎える中を、得意満面にゆうゆうと通り過ぎていったものだ」と伝わっています。
従来タバコは、自家喫煙を許されていたが急に禁止されたので、密かに喫煙する耕作者も多く、これを検挙するための役人の多くは出張臨検をしますが出張先で猟銃をぶっ放されて色をなくして逃げ帰ることも珍しくなかったみたいです。
“葉たばこ”は明治中期から昭和にかけて田村地方の主要産業の一つに整備・成長し、その収納となると田村郡全町村から集荷されます。
特に小野、滝根、常葉などからは前日を村総出の“荷送(におくり)”と称し、三春へ通じる道々は混雑を極めたと伝わり今では想像もできない程それは賑やかなものでした。
局の近所の川又屋、いろは屋、 鎌田などは、収納たばこの臨時預かり所となって、その数は数千俵にも及び遠い所の人たちは葉煙草の中で一夜を明かしたという。
また三春には”キザミ煙草”の受請工場が4軒あり、多くの人夫を雇って盛んに営業を続け専売直営とあってわずかの間に経営は進展して皆裕福な資産家になりますが、ほどなくキザミ煙草製造が郡山に移転となり、以後転業に失敗し今に残る人は一軒とてなく、タバコの煙のように消えてしまいます。
田村地方では、400余年も前から各地で自家喫用として粗悪な煙草を栽培していましたが、その後元和2年3月三春が会津蒲生領時代に江戸幕府から煙草禁令が出て一時中絶し、江戸中期・宝暦の頃から再び栽培が始まります。
東白川宮本地方の「松川葉」の種子を移入した小野町方部から、更に滝根、大越を経て三春に入ってきたもののようです。
滝根、大越は耕作が最もさかんなところで、ことに菅谷の「大六煙草」は地方の銘葉として大いに売り出されたという。
その頃、滝根に広瀬の三郎という煙草作りに熱心な人がいて品種の改良に尽し、野州地方(栃木)から良品種を移入してこれを関東名葉と名付けたが優良葉として好評を受けます。
それから明治14、5年頃まで、これらのほか「柳葉」、「花切」、「御祭国府」や「大葉関東」、「丸葉関東」、「芳関東」など多種の葉たばこが耕作されていました。
輸出面では、船引町の助川良平翁が横浜シトロン会社の代理店として大発展をし、三春町からは、「二七市」を通して県内はもちろん山形、米沢地方にも大量の煙草が出荷されていました。
明治初年、「松川葉」は江戸市場や輸出市場などで名声を博しますが、当時三春地方では幹干方が、小野方面は聯閲法(れんえつほう)が行なわれ大正の初期まで続きます。 専売法執行後、郡内嘱託指導員が数名任命され、耕作改善や町村煙草耕作組合創立の指導に当っている。また、大正の初期には、三春、小野新町、常葉の3煙草耕作連合会が設立されます。
記録によれば郡内には、2つの「煙草神社」があり、小野町の煙草神社は大越の宗像利吉氏によって鎮座され、船引町の「煙草神社」はそれより数年おくれて、県立船引たばこ試験場開設と同時に、助川啓四郎氏の尽力で鎮座されたものと記されています。 |